5月


8日
ジャン・アンリ・デュナン(Jean Henri Dunant)(1828〜1910)スイス 社会事業家 国際赤十字社の創立者

スイスのジュネーブ市の旧家で生まれました。父は政治・経済界の名士で、福祉活動に関心の深く、母は名門コラドン家の出身でした。両親は熱心なキリスト教徒で、貧しい人々や病気で苦しんでいる人々のために、自ら進んで世話をする心の優しい人でした。

彼が31歳の時、仕事で北イタリアを旅行中に、たいへん悲惨な戦争に出会いました。これはイタリアの統一をめぐってオーストリア軍とフランス・サルジニア連合軍との間でおこった「ソルフェリーノの戦い」といわれるもので、4万人を超える兵士が死亡し、傷つき倒れ、町はまるで生き地獄のようでした。

この戦場に行きあわせた彼は、「みんな同じ人間どうし」という合い言葉のもとに、ありったけの気力をふりしぼって町の人々といっしょに、敵・味方の区別なく傷ついた兵士を助けました。

旅を終えスイスに帰った彼は、自ら戦争犠牲者の悲惨な状況を語るとともに、「ソルフェリーノの思い出」という本を自費出版し、この中で国際的な救護団体の設置を訴えました。

世界中の多くの人が、この考えに共感し、そして、それを実現させるために彼を含む5人の人が集まって「五人委員会」ができました。これが、今の「赤十字国際委員会」です。

彼は1863年10月26日〜29日に、ヨーロッパ16ヶ国の代表者をジュネーブに招いて、アテネパレスで、赤十字創立のための始めての国際会議を開きました。この日のために、デュナンは、自費で、2ケ月に渡ってヨーロッパ各国の皇帝や元首の説得に出かけて準備を進めていました。

この会議で、戦場で敵・味方の区別なく手当すること、また、手当を行う人を攻撃しないことという「ジュネーブ条約」(赤十字条約)を作りました。このとき、この団体のしるしとして、スイスの国旗の色を逆にした「白地に赤十字」が決まりました。これは彼をはじめ、5人のスイス人の働きに敬意を示しているのです。

しかし、彼は、赤十字を作ることに一生懸命になりすぎたため、自分の会社の経営に失敗してしまい、莫大な借金を抱え、赤十字が誕生してわずか3年後、彼は正式に委員会から脱会し、失意のうちにスイスを去りました。

年がたって、人々から彼が忘れられようとしたとき、一人の新聞記者がスイスのハイデンにある病院で67歳の彼に出会い、記事を書きました「この偉大な赤十字の父を、一人寂しく老人福祉病院に住まわせ平然としている世間の良識を疑う。人々はそれほど恩知らずなのだろうか」と

そして、1901年に最初のノーベル平和賞が彼に贈られたのです。彼は、その賞金のうちの多くを赤十字に寄付し、1910年10月30日、ハイデンの美しい湖の見える病院の一室で、亡くなりました。82年の生涯でした。その後、彼はチューリッヒで火葬されました。彼は、静かに、目立たないように葬儀をしてほしいと希望したらしいということでした。

1984年に決議された赤十字の平和宣言にはデュナンの次のような言葉が引用されています。「各国民が団結して良心にしたがって行動するならば戦争を防ぐことができる。」
ソルフェリーノの戦い
ソルフェリーノの戦いで、15時間のうちに4万人以上もの死傷者が出また。ケガをした兵士は、近くにあるカスティリオーネという小さな町に運ばれて、そこでケガの手当をされました。しかし、あまりにケガ人の数が多いので、学校も教会も普通の民家までもがみな、急ごしらえの病院としてつかわれました。ケガ人たちは道路にまで寝かされて、このままでは助かる人も死んでしまうような状況です。

戦争で傷ついた者は、ある者はぐったりと横たわったまま、苦しみもがき悲痛のさけびを上げて救いを求めています。6月のイタリアは夏、焼け付くような太陽に傷口はすぐ腐りはじめ無数のハエがその周りを飛びかっています。一面に血生臭いにおいが立ちこめ、カスティリオーネの町はまるで生き地獄のようでした。

このあまりのひどさに、町の人々は清潔な水を汲んできては、傷口を消毒したり、食事の世話をしたり、大人も子供もできるかぎりのことをしました。デュナンはたまたま仕事で北イタリアを旅行中、この死傷者の悲惨さと、残忍なありさまに、宿命的な出会いをしました。デュナン、31才のときのことでした。

彼は手当に関する専門知識はまったくありませんでした。それでも、彼は多くの苦しむ人々を見て、なんとかしなくてはと人間としてのやむにやまれぬ気持ちから町の人々の中に飛び込んでいったのです。そして、町の人々にまじって必死でケガ人の世話をしました。

それからというもの、彼は寝る間も無く一生懸命ケガ人の手当にあたりました。しかも、彼は連合軍の兵士をも、オーストリア軍の兵士をも分け隔て無く助けたのです。敵味方の区別無く、誰にも優しく接するデュナンの姿に、町の人々は深い感動を覚えました。そして、人々はデュナンの働きを見習い、口々に、「みんな同じ人間同士」と言いながら、お互いに助け合って、協力しあって、献身的な救助活動を続けました。デュナンも町の人々も、人間なら誰しも持っている優しい気持ちを堂々と表したのです。そのおかげて、多くの尊い命が救われました。このカスティリオーネの経験が、赤十字を生むきっかけとなったのです。
少年のころのデュナンはよく両親に連れられて、貧しい人々に食べ物を届けたり、病人を見舞ったり、刑務所に囚人をたずねたりしました。こうした訪問を重ねることで、彼は、世の中には、不幸な人々が大勢いること、しかも、彼らは不幸のどん底で助けを求めている事を知っていったということです。
成長したデュナンは、幼い頃の体験から、すべての人々が人間らしく生きられる社会を作り上げるためには、世界中の人々が手を取り合って、みんなで助けあわなければならないと考えるようになりました。デュナンは、子供のころから思いやりのあるやさしい心の持ち主でした。その心の優しさが赤十字を生む元になっていったのです。
1855年、27才のとき、アンリー・デュナンは、YMCA世界同盟の結成に成功しました。デュナンのそれまでの努力が実ったのです。YMCAとは、キリスト教青年会のことで、1844年にイギリスのウィリアムズが創立したものです。
国際赤十字社設立から、20年あまりたったころ、日本にも博愛社ができました。そして、日本はジュネーブ条約に加盟し、翌年の1887年には、博愛社から日本赤十字社となりました。
経営に失敗し、莫大な借金を背負ったデュナンは、その後、パリやロンドンで貧しく、孤独に暮らすことになりました。しかし、いつどこにいても赤十字の発展を願っていました。
1887年、デュナンも故郷が恋しくなったのかスイスに戻ってきました。デュナンは59才になっていました。彼はジュネーブから遠く離れた、スイス東北のハイデンという小さな村の下宿屋に老いた身を寄せました。 しかし、村人達は誰もこの老人が赤十字生みの親、アンリー・デュナンだとは知りませんでした。家族も無く、一人寂しく老いた日を送るデュナンでした。
1992年、64才のとき、デュナンはハイデンの老人福祉病院に入院を許可されました。そこで、デュナンは回顧録を執筆しはじめました。そして、そこに1人の新聞記者が現れたのでした。
【ジュネーブ条約】
一九四九年ジュネーブ外交会議で採択された四条約(戦争犠牲者保護条約)。
@戦地にある軍隊の傷病者の状態改善条約
A海上にある軍隊の傷病者、難船者の状態改善条約
B捕虜の待遇に関する条約C戦時における文民保護条約、
のこと。赤十字条約。
【赤十字社】
戦時に、敵味方の区別なしに傷病者を救護する目的で設立された国際的協力組織。イスラム教諸国では赤新月社という。現在では、戦時に限らず平時における病院経営、疾病の予防、衛生思想の普及などの人道的事業に奉仕している。各国赤十字社の連合体として国際赤十字社・赤新月社連盟が組織されている。一八六三〜六四年、スイスのジュネーブでスイスをはじめ世界一一か国間に締結された赤十字規約によって創設。わが国では明治一〇年の西南の役に佐野常民が博愛社を設けたのに始まり、同二〇年日本赤十字社と改称。大正八年に赤十字社連盟に加入。
【赤十字国際委員会】
 戦時などにジュネーブ条約の趣旨が守られているかどうか監視する組織。永世中立国スイス国民二五名からなり国際紛争に中立の立場から仲介者ともなる。一八六三年設立。本部ジュネーブ。ICRC(International Committee of the Red Cross)。


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