5月


7日
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー(1840〜1893)ロシア 作曲家

ロシアのウラル地方のヴォトキンスクで鉱山技師(監督)イリヤ・ペトロヴィチ・チャイコフスキーと妻アレクサンドラ・アドレエブナの間に7人兄弟の次男として生まれました。

幼少の頃から並外れた音楽的才能を示し、4歳で母に捧げる歌を作曲しました。また感受性が強く、どんな批判にも敏感に反応し、音楽に感動するあまり曲の一節が耳にまとわりついて夜中に目を覚ますこともありました。

その後、父の意志で法律学校に学び、卒業後司法省の書記となり、1861年役人勤務のまま、趣味として音楽教室に入学しました。ある時、彼は音楽教室でルービンシテインから「君は才能はあるが音楽に対する姿勢がいい加減だ。他に職業を持っていることで音楽に打ち込めないのなら音楽の勉強をやめた方がよい」との忠告を受けました。このひとことが彼に決定的な影響を与え、法務省を辞めて、本格的に音楽家の道への決意を固めるきっかけとなったのです。

音楽学校(後の音楽院)卒業後はモスクワ音楽院で教鞭をとりながら、本格的な作曲活動に入り、国民楽派からの影響は受けつつも、ヨーロッパ音楽の伝統を尊重する立場をとり、ロシア民族的なものと西欧的なものとの折衷的作風を守り通しました。

1875年「ピアノ協奏曲第1番」を作曲、その後バレエ音楽「白鳥の湖」、オペラ「エウゲニ・オネーギン」などを発表。フォン・メック夫人からの年金を受け、ヨーロッパ各地へ旅行「イタリア奇想曲」「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」を完成させました。

1893年「第6交響曲」初演後の4、5日たった頃、彼は体調を崩していることに気がつきました。そのころペテルブルグではコレラが流行していたので、弟モデストは彼が生水を飲んでいたことをひどく心配していましたが、その心配は的中し、その年の11月7日未明、ロシアを代表する大作曲家は最愛の母と同じくコレラを患ったのが原因で53歳の生涯を終えたのでした。彼の遺体はペテルブルグのアレクサンドル・ネフスキー寺院の墓地に葬られました。
法務省での地位は、法律学校出身のキャリア組ということで課長待遇の役職であり、また当時の職業音楽家の社会的地位は低く、収入の面でも不安定であったので、この人生の大きな進路転換に家族、親戚はこぞって反対しました。しかし、父イリヤは息子の意志を支持してくれたのでした。
白鳥の湖
4幕のバレエ。台本 V.ベギチェフ,V.ゲルツァー。音楽チャイコフスキー。振付 J.ライジンガー。 1877年モスクワのボリショイ劇場で初演。各地に伝承される白鳥姫の民話や伝説を巧みに構成したロマンチック・バレエ。初演は失敗に終り,その後も数回改訂されて上演されたが,作曲者存命中には全く認められなかった。 95年 M.ペチパと L.イワーノフの共同振付によって初めて称賛を得,名作として知られるようになった。現在上演されているものは,ほとんどこのペチパ=イワーノフ版によっている。その後の改訂版としては A.ゴルスキー,A.メッセレルのもの,V.ブルメステルの演劇的傾向の強いものなどがある。日本初演は 1945年小牧正英の振付で東京バレエ団が全幕上演した。
眠れる森の美女
序章と3幕4場から成るバレエ。 C.ペローによる童話をもとに,M.ペチパと I.フセボロジスキーが台本を書いた。音楽チャイコフスキー。振付ペチパ。装置フセボロジスキー。 1890年ペテルブルグで初演。多数の踊り手と仕掛け装置を駆使した豪華なスペクタクル・バレエで,ペチパの最高傑作の一つ。 1921年 B.ニジンスカの改訂版がバレエ・リュスにより上演され,これも好評を得たが,製作費がかかりすぎたためレパートリーとはならなかった。以来上演のむずかしい作品といわれながらも,39年 N.セルゲーエフによりサドラーズ・ウェルズ・バレエ団でペチパ版が復活上演されるなど,今日にいたるまでさまざまな振付で繰返し上演されている。日本での全幕初演は 52年小牧バレエ団による。
くるみ割り人形
2幕3場のバレエ。チャイコフスキー作曲。 E.T.A.ホフマンの童話『くるみ割り人形とねずみの王様』に基づく。振付師 M.ペチパが台本を書き,全曲は 1892年2月完成,12月バレエ初演のときはペチパが病気のため L.イワーノフが振付を担当。少女クララがクリスマス・プレゼントにもらったくるみ割り人形と一緒に寝ていると,人形軍とはつかねずみ軍との戦争が起り,クララの助けで人形軍が勝利を収める。くるみ割り人形は王子になり,王女になったクララをお菓子の国に案内し,2人は歓迎を受けるが,これはみなクララのクリスマス・イブの夢であった,という筋。今日まで,ファンタジーとしてだけでなく,S.フロイトの精神分析学的研究による解釈などで多彩に演出される。
フォン・メック婦人は、鉄道で富を築いた夫に先立たれ、夫の死後、優雅な暮らしを送っていました。そんな彼女をたずねる数少ない人物の一人に、チャイコフスキーを音楽講師として雇っていたニコライ・ルビンシテインがいました。ニコライが自分の弟子であるチャイコフスキーの作品をフォン・メック夫人に紹介したことが縁となり、1877年、夫人がチャイコフスキーに作曲を依頼することになったのです。チャイコフスキーが30代半ばのことでした。

フォン・メック夫人はたちまちチャイコフスキーの音楽に恋するようになりました。その繊細さが、個性的な彼女の心を揺さ振ったのでしょう。彼女は熱烈な言葉を書き連ねてチャイコフスキーに手紙を送り、彼は温かくそれに応えました。こうして二人の間で頻繁に手紙がやり取りされるようになりました。1日に3〜4通の手紙が行き来したこともあったほどで、二人は交際の続いた13年間になんと1,000通を超える手紙を交換したと言われています。

とはいうものの、二人の関係は手紙の上だけのものでした。これはまたチャイコフスキーにとっては願ってもない交際のスタイルでした。フォン・メック夫人は、二人が決して会わないという条件のもとに、彼に年間6,000ルーブルの資金援助を約束しました。
この資金のおかげで、チャイコフスキーは作曲家としての活動を続ける事ができたのです。
ところが1890年9月、フォン。メック夫人から一通の重大な手紙を受取りました。「経済的な危機に直面しているので、もう年金を支給することはできません。したがって、私たちの友情もこれで終わらせざるを得ないのです」さらに「私を忘れないで下さい。時々は思い出してください」と書き添えられていました。

未亡人からの援助がなくても十分に自立できる位置にいたチャイコフスキーでしたが、文通のみで14年間も続いたあの深い友情がなぜ打ち切られることになるのか、彼はお互いの間が切れないよう心をこめた手紙を書き送りましたが返事はありませんでした。

フォン・メック夫人の破産の話は事実ではなく、おそらく数年前から患っていた精神疾患のために、こうした行動にはしったと思われます。ただ、チャイコフスキーにとって、14年間の交際が金持ちの未亡人の単なる気晴らしのために、自分が高価な値段で買われていただけではなかったとの疑惑に駆られ、プライドをひどく傷付けれたまま、心の平静を失い2度と回復することはありませんでした。
チャイコフスキーの突然の死は、いろいろな憶測を呼び、不注意でコレラにかかった理由のほかに、わざと生水を飲んだ自殺説、ある公爵の甥とチャイコフスキーとの同性愛が発覚して、法律学校時代の同級生を含む検事が秘密裏に「名誉裁判」を開き、事実が明るみに出ないように彼に自殺をすすめ、それにしたがったという説がありますが、現在ではコレラが原因である病死説が有力です

5月


7日
本居宣長 (もとおり のりなが)

(1730〜1801)

しきしまのやまと心を人とはば朝日ににほふ山桜花

江戸時代中期の国学者

伊勢(三重県)松坂の木綿問屋の子として生まれました。父の死後家業が衰えたので、京都に出て医学を学び、医師の免許を得て、故郷に帰り小児科医を開業、名を宣長、医師名を春庵と号して診療をするようになりました。

1763年、彼は、かねてより尊敬していた賀茂真淵との対面を遂げ、「松阪の一夜」として知られる会見によって、「古事記伝」の執筆にかかるようになります。この年彼は真淵に正式に弟子入りし、手紙のやりとりを通して教えを受けながら、古文献に関する研究を進め、35年もの歳月をかけて1798年に大著「古事記伝」を完成させたのでした。

彼は、書斎を鈴屋(すずのや)と名づけ、諸国に多くの門人をもち、たびたび旅行に出かけています。

その後、天明の飢饉にあたり紀州藩主から政治上の意見を聞かれ「玉くしげ」を上呈しています。彼は、外来思想、とくに儒教思想に反対し、復古主義的な古学をとなえました。古代の神話研究には後世の人の主観をいれず、ありのままに古代人の心と事実を主張しました。

そして、人間のありのままの素直な心の動きを「もののあわれ」と名づけ、このもののあわれを表現することこそが文学の生命だと説いています。
彼は、1801年9月29日に72歳で亡くなりましたが、遺言により山室山に葬られ、そこには、1本の山桜が植えられているそうです。
鈴屋
彼は、自分の書斎の柱に36個の小鈴を連ねた柱掛鈴を取り付け、研究に疲れると鈴を振って、その音を楽しんでいたといわれています。


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