5月 4日 |
オードリー・ヘップバーン(Hepburn,Audrey)(1929〜1993)アメリカ 映画女優 ベルギーのブリュッセルで、アイルランド系イギリス人貿易商の父とオランダ貴族の母の子として生れました。 10歳の時、両親の離婚でオランダに移りますが、第2次世界大戦に巻き込まれ、ドイツ軍に叔父を殺されてしまいます。その後、ロンドンに移り、バレエを学びながら、対独レジスタンス運動に参加しています。 1948年より舞台や映画に出演しはじめ、1951年当時のベストセラー「ジジ」の原作者の女流作家コレットに偶然見いだされ、「ジジ」の主役に抜擢、ブロードウェー公演で主役を演じました。 1953年、これをみた映画監督 W.ワイラーに「ローマの休日」 の主役に抜擢され、映画女優としてデビュー、アカデミー主演女優賞を受賞しました。その後、1954年に男優のメル・ファーラーと結婚。1960年1月、待望の一子、ショーンを授かる。2度の流産の末の子でした。 その後、2度の離婚の後、ロバートウォルターズとスイスのオードリーの家で暮らしはじめました。結婚という形はとりませんでしたが、二人ともオランダ人であり、暖かい絆で結ばれていました。二人は50キロと離れていない街で育っていたのでした。 1988年、彼女はユニセフの運動に参加、親善大使をつとめるようになります。人を愛する心、「愛は与える物」という信念を最後まで貫き通しました。ソマリアから帰国後も胃の痛みをおしながらヨーロッパを廻り、救済キャンペーンに参加しましたが、1992年11月、あまりの体調不良に訪れた病院で消化器官の悪性腫瘍を知らされます。 その後、手術を受けましたがもう手後れでした。死がそこまで近づいていると悟った彼女はスイスに戻りたいと願い、1993年1月20日最愛の人、ウォルターズとショーン、ルカ(次男)に見守れながら永遠の眠りにつきました。63歳でした。 |
「オードリーは今やこの世から消滅してしまったものを持っていることで知られていた。すなわち気品と優雅なマナーで、これらは学んで身につくものではない。生まれつき備わっているかいないかのどちらかである。本物のスターになるために必要なのは、神が与えたり与えなかったりする特別な要素であり、それは学んで得られるものではない。彼女は生まれつきそれに恵まれていた。神が彼女の頬にキスをして、オードリー・ヘップバーンが出現したのだ。」 彼女の理解者で映画監督の巨匠であるビリー・ワイルダーの言葉より。 |
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実は「ローマの休日」の主演には、ジーンシモンズが決定しかけていたのです。しかし彼女は初のシネマスコープ作品の「聖衣」の出演交渉を受けており、迷った挙げ句、「聖衣」を選びました。その後、ニューヨークで再度、「ローマの休日」のオーディションが行われ、オードリーが主役に決定します。「ジジ」の公演が終わるまでの8ヶ月間、ワイラー監督は待っており。そして「ローマの休日」での大成功で彼女は一躍大スターの仲間入りをするのです。 | |
第2作目の主演は「麗しのサブリナ」でした。彼女は衣装を作るために、パリのジバンシーをたずねますが、ジバンシーは「ヘップバーン」が来るというので、「キャサリンヘップバーン」が来ると思って楽しみにしていたのです。しかし、ドアをあけて入ってきたのは、オードリーでした。この、ジバンシーとの出会いがなかったら、オードリーもここまで輝かなかったかもしれません。ジバンシーなしでは彼女の映画は語れない程、ジバンシーの衣装はオードリーを引き立てました。 この作品の中で彼女が着ていたトレアドルパンツにフラットシューズは大評判になり、サブリナルックとして日本でも大流行しています。 |
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1959年の「尼僧物語」では、オードリーは肉体の苦悩を乗り越えて撮影に望みます。過酷なアフリカロケの中で、苦難を忍び、そこから多くのものを得ました。そして「愛されるより、愛する事の方が大切だ」ということを学んだと言われています。 おそらく、この時の体験が、後の、ユニセフの運動に従事するきっかけのひとつになったのだということです。 |
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「ティファニーで朝食を」の中で、オードリがギターを弾きながら歌う「ムーンリバー」がありますが。この曲は試写の段階でパラマウントの社長から「あの歌は削ったほうがいい」という意見が出たそうです。しかしオードリーが「絶対に削らせない」という一言で残った、というエピソードがあります。それだけ彼女は心をこめて歌っていたのでしょう。 オードリーは、貧しい境遇で育ったホリーを演じるにあたり、彼女の女優としての芽が出る前のロンドン時代の自分とホリーを重ねあわせて見ていた。その事で不安を乗り越える事ができた、と後に語っています。 |
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主な作品 天国の笑い声(1951) 若気のいたり(1951) ラベンダーヒル一味(1951) 初恋(1952) ローマの休日(1953) 麗しのサブリナ(1954) 戦争と平和(1956) パリの恋人(1957) 昼下がりの情事(1957) 緑の館(1959) 尼僧物語(1959) 許されざる者(1960) ティファニーで朝食を(1961) 噂の二人(1962) シャレード(1963) パリで一緒に(1964) マイ・フェア・レディ(1964) おしゃれ泥棒(1966) いつも2人で(1967) 暗くなるまで待って(1967) ロビンとマリアン(1976) 華麗なる相続人(1979) オールウェイズ(1989) |
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5月 4日 |
トマス・ハクスリー(1825〜1895)「ダーウィンのブルドッグ」イギリスの生物学者,科学啓蒙家。 チャリング・クロス病院で医学を学び、ロンドン大学で医者の資格を得たのち海軍の「ラトルスネーク」号に乗込み、船医としてオーストラリア探検に加わりました。その航海中にクラゲの比較解剖学的研究を行い、ロイヤル・ソサエティの機関誌に論文を発表して、生物学者として認められ、その後、海軍を退役して王立鉱山学校の教授となりました。 彼は、ダーウィンの進化論発表後、「種の起原」を宗教界が攻撃したのに対し、彼は自らを「ダーウィンのブルドッグ」と称してダーウィン攻撃に立ち向かい、神学者や聖職者と対決。特に1860年のオックスフォードにおけるイギリス学術振興会の席上で、主教ウィルバーフォースはハクスリーの進化論を攻撃しましたが、彼はこれを撃破しましたた。 その後、1863年、彼は「自然界における人間の位置」を著わして、ダーウィンもまだ触れていなかったヒトの起源について、ヒトは類人猿から進化したと唱えました。 ここでもR・オーウェンが批判を加えましたが、彼は両者の脳の構造が同一であることを実証し、また、人間の精神活動は脳の生理作用によると説き、ヒトと類人猿の間に連続性を考えるための根拠としました。 その他にも、比較解剖学や古生物学での研究も行い、鳥類の分類も行ないました。また、啓蒙書執筆や講演を通じて科学の普及をはかり、教育制度の改革や科学教育の充実化に尽力するなど、幅広い活動を行ないました。 |
1859年に「種の起源」が出版された翌年のオックスフォード集会で、反対派のウィルバーフォース主教が彼に対して「……ならばあなたの祖先というサルは、母方ですかそれとも父方ですか。」と皮肉った時、ハクスレーは、こう答えたそうです。「ご質問が私に卑しいサルを祖父にもちたいのか、それとも、すぐれた才能と大きな影響力もちながら、それを厳粛な科学的議論をひやかすためだけに用いる人間を祖父にもちたいのか、と問うならば、私はためらうことなくサルを選ぶと断言いたします。」 |