5月


1日
円山応挙(まるやまおうきょ)(1733〜1795) 画家 円山派の祖

丹波国(現在の京都府亀岡市)に農家の次男として生まれました。幼い頃から絵を書くのを好み、15歳の頃に両親と共に京に移り絵の勉強を始めたと言われています。

京へ上洛した応挙は、画家石田幽丁に弟子入りしましたがその生活は苦しく自分の描いた絵を売って何とか暮らしを支えていました。大乗寺の住職密蔵上人と出会ったのはそんな時でした。上人はまだ無名であった彼の画才を見抜き、ひいきにしていたと言われています。

ある日、上人が彼に「何か志はあるか?」とたずねたところ、返事は「残念ながら自分は無一文です。もし銀三貫目あれば江戸へ行き勉強し必ず天下に名を残す絵師になります。」「それならたやすいことだ。私がなんとかしよう。」と即座に銀三貫目を彼に渡しました。彼は喜んで江戸へ行き3年間の修行を経て、洋画の遠近法や、宗元画の写実洋式に刺激されて実物写生に精進し、独自の写生画風を大成し、円山派を開き、現代にも名を残す絵師となりました。

1787年、当時55才になった応挙は、古くなって改築の時期にさしかかっていた大乗寺の話を聞きつけ、密蔵上人の恩が強くよみがえってきました。以来8年間5回に渡って寺を訪れ、子弟や門弟と共に襖絵や軸物を多数描き、その数は165点にのぼっています。

応挙の手がけた襖絵は「孔雀の間」「芭蕉の間」「山水の間」の三間に残されています。 孔雀の間の襖絵は、16枚の金箔地襖に水墨で3羽の孔雀と松、岩を描いた大作です。 応挙がこの作品を描いたのは、晩年の1795年、63歳の時のことです。

しかし彼は、 61歳頃から眼病と中風に悩まされ、体も弱っていたようです。その時期の作品の鐘馗図には「寛成乙卵春試筆六十三齢源応挙」と記されていますが、応挙が作品に年齢を残す事はほとんどなかったので、死期を悟っていたのかもしれません。
この作品を描けあげた3ヵ月後の7月17日、京の自宅で亡くなりました。

※大乗寺
天平17年(745年)開基行菩薩によって開かれたお寺で、別名「応挙寺」と呼ばれ親しまれています。円山応挙の他呉春や門弟の襖絵が数多く残されており、寺全体が円山派の美術館となっています。

応挙一門
大乗寺の障壁画には、山本守礼筆「梅花狗子図」、応挙の長子応瑞の「遊鯉図」、藤雪亭筆「群仙図」等、応挙一門による百六十五面の障壁画が描かれているそうです。この様子は志賀直哉の「暗夜行路」の中で、「応挙が一番多く描いていた。その子の応瑞、弟子で呉春、芦雪もあり、それぞれおもしろかった。」と評し、歌人与謝野寛、晶子夫妻も「羨まし香住の寺の筆のあと 作者みずからたのしめるかな」(寛)と詠みあげて絶賛しています。

付立筆(つけたてふで)
応挙が考案した筆で、穂先が長く、弾力のある毛を芯にしたもの。 作者の意図通りの、細く息の長い線を描ける革命的な筆。
「円山筆」ともいわれ、今日でも京都で売られているそうです。
応挙の幽霊
日本で馴染み深い足のない幽霊は、円山応挙がはじめて描いたとされています。
彼が、障子越しに病弱であった妻の影姿を見て、足のない幽霊を思い立ったと
されているそうです。


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