4月


28日
島津斉彬(しまづ なりあきら)(1809〜1858)江戸末期の薩摩(鹿児島)藩主

27代藩主島津斉興(なりおき)の長男として誕生しました。
幼い頃より江戸で育った彼は、曽祖父島津重豪(しげひで)の影響を強く受け、西洋文化に強い関心を持ち、和漢をはじめ洋学にも通じる先見性豊かな人物でした。

しかし父斉興や薩摩藩家老たちは、重豪の影響を受けた斉彬が、重豪のように藩費を浪費し財政難を来たすことを恐れ、斉彬の藩主就任は遅れました。そして1851年幕府の介入により、斉彬は42歳にしてようやく藩主に就任することができました。

そして、西郷吉之助 (隆盛)、大久保一蔵 (利通) ら下級武士を藩政に登用し,財政改革に尽力しました。

あわせて洋式近代産業の育成・振興に力を注ぎます。まず1851年、鹿児島城内に製錬所を建設します。ここではいろいろな製造実験が行われ、成功したものは鹿児島市郊外の磯地区に工場を建てて、実用化をはかりました。工場の数は次第に増え、やがて磯には1200人もの職人が働く一大洋式工業団地ができあがり、彼は製錬所を「開物館(かいぶつかん)」、磯の工場群を「集成館」と名づけました。

彼の行った藩政改革によって、溶鉱炉、大砲などの火器の製作、ガラスや火薬、電信機やガス灯など、当時の日本では最新技術といわれるものを藩内で製造できる環境を整え、薩摩藩は幕府よりも革新的な富国強兵を実現しようとしていたのです。

軍需だけではなく、紅ガラスの製法を研究させ、銅粉で暗紅色の、金粉で透明な紅色のガラスを製造することに成功。当時鹿児島を訪れた外国人からも一級の美術工芸品として高く評価されました。

また、城内に電信を架設し、洋式軍艦を建造し、日章旗を日本総国船印として幕府に認めさせるなど、啓蒙君主としてのめざましい治績を残しました。

幕府においては、公武合体論の中心人物として幕政の改革をはかり、一橋慶喜を将軍に立てようとしましたが、大老井伊直弼によって阻まれてしまいます。その手腕を期待されながら、志半ばにして、コレラにかかって急死してしまいました。

アヘン問題を原因として、イギリスと清国(中国)の間に起こった戦争をアヘン戦争といいますが、1840年にはじまったこの戦争をきっかけに中国の半植民地化がはじまりました。中国といえば東洋一の大国であり、その中国が遠い島国であるイギリスに敗退したというニュ−スは日本にも伝えられ、有識者らに大きな衝撃を与えました。
28代島津斉彬もその一人でした。そもそも、薩摩藩は南の玄関口として古くから外国船が姿をみせていました。また、支配する琉球を通して外国の情報が多くもたらされ、開明的な視野をもっていた斉彬は、当時の西欧諸国の威力を冷静にとらえ、わが国の危機的な状況を痛感していました。
斉彬は、日本が植民地にならないためには、西欧諸国の技術を導入し軍事力を身につけることが必要であり、また、わが国が一丸となって諸外国と接していくべきであるとと考えていました。
尚古集成館には、斉彬がアヘン戦争のことを記した「アヘン戦争聞書」が収蔵されています。
斉彬はアヘン戦争を一つのきっかけに、富国強兵・殖産興業事業を強く押し進めるようになります。斉彬の様々な事業は、単に薩摩藩のものではなく、わが国の将来を考えたものだったのです。
28代島津斉彬は、わが国の国旗「日の丸」の生みの親でもあります。日の丸は単純なデザインですから、古来よりいろいろな形で使われていました。しかし、白地に赤い丸の日の丸を、日本の印にすることを幕府に提案したのは、斉彬なのです。
当時は、国内でさえも自由に移動することができない時代でした。また、長く鎖国を続けていたわが国では、藩という意識が強く、まるで他藩が外国といったイメ−ジでした。そのため、日本を象徴するような印はありませんでした。
しかし、当時の日本には、開国を求めて外国船が来るようになっていました。斉彬は、わが国が植民地の危機にさらされていることを敏感に感じ、わが国が諸外国と対等に接するためにも、わが国が一丸となることが必要であると考えていました。さらに、戦にそなえ、他国船とわが国の船を区別する印が必要であると考え、幕府に提案したのです。
1854(安政元)年、幕府も斉彬の考えを採用し、日の丸をわが国の総船印にすることを決めました。
お由羅騒動
嘉永2(1849)年、薩摩藩にお家騒動が起こります。俗に言う「お由羅騒動」(おゆらそうどう)と言われているものです。薩摩藩第27代藩主・島津斉興(なりおき)は、正室・周子(かねこ)の子の世子(せいし・藩主の跡継ぎになる子供)である斉彬(なりあきら)ではなく、側室・由羅(ゆら)の子の久光(ひさみつ)を藩主にしたいと考えていました。斉彬は進取気鋭の性格で、当時の日本を取 り巻く諸外国の事情にも通じ、世間からは「当時三百諸侯中の世子の中でも随一」と言われるほどの人物でした。しかし、藩主の斉興は、そんな斉彬を嫌い、自らの家督を譲ろうとしなかったのです。当時、斉興は58歳になっており、斉彬は40歳になっていました。これは当時の社会状況から見ても異常です。普通、世子が20歳代にもなれば、父である藩主は自ら隠居して、子に家督を譲るのが通例だったのです。ところが、自らが50歳代を過ぎ、子が40歳になろうとも、斉興は隠居しようとはしませんでした。そんな斉興の異常な行動に反発した藩内の斉彬を慕う高崎五郎右衛門(たかさきごろううえもん)と近藤隆左衛門(こんどうりゅうざえもん)を中心としたグループが、斉興隠居・斉彬擁立に動き、活動を始めました。そんな反体制への動きを知った藩主・斉興は、烈火のごとく激怒し、高崎、近藤の両名に切腹を命じ、以下この運動に関わった者達に、切腹や遠島、謹慎といった重い処分を下したのです。これがいわゆる「お由羅騒動」とか「嘉永朋党事件」(かえいほうとうじけん)、「近藤崩れ」、「高崎崩れ」と言われるものです。
 「お由羅騒動」により、斉彬派と呼ばれる一派は、なりを潜めたように思われましたが、斉彬自身は藩主になることを諦めませんでした。自らが得た知識を藩政に生かし、大幅な改革を推進したい、そして、諸外国の圧迫が迫る日本のために、自らの手腕を生かしたい。このような大きな目的と希望を持っていた斉彬は、藩主に成るべく一計を講じます。まず、斉興の腹心であり、薩摩藩の財政責任者でもあった調所笑左衛門広郷(ずしょしょうざえもんひろさと)を失脚させようと考えました。斉彬は日頃親しくしていた老中・阿部正弘(あべまさひろ)の協力を得て、薩摩藩の密貿易(琉球を通じて薩摩は外国と貿易をしていた)を幕閣の問題にあげて、斉興及び調所を追い詰めようとしたのです。自らの藩の秘密を漏らし問題にすることは、斉彬にとって苦肉の策であったのですが、斉彬としては何とかして藩主になるためには、こうするより手立てがなかったのです。この斉彬の秘策は的中しました。まず、調所は、藩内の貿易に関する責任は一切自分にあるという理由で服毒自殺して果てました。そして、藩主の斉興も、この密貿易問題と先年のお由羅騒動の不祥事を幕閣から突きつけられて、隠居せざるを得なくなったのです。
斉彬は新しい人材登用にも力を入れ、藩内に「藩政において、自分が気付かないことがあれば、どんどん意見書を出すように」という布告を出したのです。そのころ、西郷は加冶屋町郷中の二才頭(にせがしら・町内の若手リーダーのこと)を勤めていた関係から、非常に人望があり、その誠忠組のリーダー的存在になっていました。そして、その斉彬の布告を見た西郷は、せっせと建白書を書き、藩庁に提出しました。西郷が提出した建白書は現在には残っておらず、その内容は定かでないのですが、農政に関する内容であったと伝えられています。いかに農民が重税に苦しみ、困難な生活を強いられているか、ということを切々と訴えたものであったことでしょう。これは、以前、郡奉行の迫田から学んだ「国の根本は、農民である」という西郷の愛農思想に準拠したものです。そして、西郷は農政に関すること以外でも、先年の「お由羅騒動」で処罰された正義の武士達が、未だ遠島や謹慎を解かれていないことに不満を持ち、そのことも意見書に書き、度々提出しました。このような西郷の建白書や意見書は、斉彬の目に留まり、斉彬は西郷の存在を知るようになりました。そして、安政元(1854)年、西郷は郡方書役助から中御小姓・定御供・江戸詰(ちゅうおこしょう・じょうおとも・えどづめ)を命じられたのです。西郷終生の師であり、神とも崇めた斉彬との出会いは、この日から始まったのです。
斉彬の参勤交代に付き従い、江戸に到着した西郷は、斉彬より庭方役(にわかたやく)を拝命しました。庭方役と言えば、何か植木職人のような感じを受ける方がおられるかもわかりませんが、そうではありません。当時、身分の低い人間が、藩主や家老といった身分の高い人物に拝謁する時には、随分面倒な手続きが必要でした。封建制とはこういうものなのですが、西郷の建白書を何度も読み、頼もしい若者と感じていた斉彬は、西郷を薩摩藩を背負って立つ人物として仕込もうと考えていたので、面倒な手続きを取らずに、自由に庭先などで会うことの出来る庭方役に任命したのです。庭方役に任命された西郷は、そこで初めて斉彬に拝謁しました。自分にこれだけの配慮をしてくれる斉彬に、西郷は涙が出んばかりに感激したことでしょう。この人のためなら、喜んで命を捨てよう。西郷はそうも考えたことでしょう。そして、この日から西郷は、斉彬から日本の現在の政治情勢、諸外国の事情、そして、当面の日本の問題等を教育されました。斉彬自身も、西郷と接する度、「この若者は、必ずものになる」と確信し、愛情を持って西郷を一人前の人物になるよう教育したのです。薩摩では、「斉彬公が西郷どんを呼んでお話をなさる時は、たばこ盆をおたたきになる音が違った」と伝えられています。このように、斉彬の薫陶を受けた西郷は、当時江戸中で名をはせていた水戸藩の藤田東湖(ふじたとうこ)や戸田蓬軒(とだほうけん)、越前福井藩の橋本左内(はしもとさない)といった人物などと交流するようになり、次第に西郷の名も諸藩士の間で知られるようになっていきました。このようにして西郷は、斉彬によって天下のことを知り、世に出さしめられたのです。
斉彬は勝海舟に「非常時に小事にとらわれていては、肝心の大事を見失うこともある。上に立つ物は大切な基本だけを押さえ、あとは自由に伸び伸びやらせることが肝要だと思う。そうすれば、新しい可能性も芽生えてくるものだ」と話し、海舟も深く感心したという。
薩摩藩は佐賀藩に続き、反射炉建設に着手したものの1号炉は失敗した。斉彬は担当者を「西洋人モ人ナリ。佐賀人モ人ナリ。薩摩人モ同ジク人ナリ。退屈セズマスマス研究スベシ」と励ました。
当時、日本には国旗がなく、「外洋で外国船と日本船を区別できるような印が必要」と考えた斉彬が、日の丸を日本の船印にするよう幕府に提案し認められました。
薩摩藩の経済的背景には琉球王国との貿易があり、またそれを利用して偽金作りもしていた。幕府には貿易の都合上、琉球通宝を造るといいながら、実は天保通宝を造っていたのだった。その額年間100万両にも達したといいます


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