4月


27日
サミュエル・フィンリー・ブリーズ・モース(Samuel Finley Breese Morse)
(1791〜1872)アメリカ 画家 発明家 通信技術者

マサチューセッツ州に生まれました。父は牧師で地理学研究家でした。1811年イギリスに渡って絵を学び、4年後帰国して肖像画家として知られるようになりました。その後「ナショナル・アカデミー・オブ・デザイン」(意匠学校)をつくり、その所長をつとめました。

電磁石を利用した通信のアイデアが生まれたのは、1932年、再びヨーロッパに渡って帰国する際の大西洋航路の船上だったといわれます。彼は同船したある学者から、当時、発明まもない電磁石の仕組みについて説明を受けたのです。興味を覚えた彼は、船旅の退屈まぎれに、あれこれ考えをめぐらすうちに、電磁石を通信に利用できることを思いつきました。トンツー(・-)の長短2種の信号を組み合わせることで、アルファベットを表せることに気づいたのです。

ニューヨークに帰ってから、彼は早速、アトリエで電信機の製作や実験に取りかかる一方、トンツー(・-)を組み合わせた符号のあり方を研究しました。印刷所における活字の使用頻度まで調べたところ、最もよく使われる活字はE、次にTでした。そこで、モールスはEやTには最も短い「・」や「-」をあて、あまり使われないXやZなどには、4つのトン・ツーを組み合わせるなどの工夫をして、アルファベット26文字とトン・ツー符号の対照表をつくりあげました。これを基本として、のちに数字や記号なども追加・整備されたのがモールス符号(彼の名前モースがなまってモールスとなりました)です。

彼は実用化に向けて政府に出資を求めましたが、当初、政府はそれをことわりました。モールス電信機の将来性を見抜けなかったのでしょう。ようやく政府の出資を受け、ワシントン〜ボルチモア間の最初の実用的な電信線が完成したのは1844年になってからのことでした

アルフレッド・ヴェールとサミュエル・モースは、その時、電信システムで最初の大きな公開試験をおこない、モースはワシントンDCからボルチモアまでメッセージ(神は何を為し給いしか?)を送っています。

その後、彼は、モールス式装置を作る電信会社を作り経営者となっています。欧米のほとんどの国がモールス機を採用しました。彼は又海底電信や写真についても研究しました。
モールス電信機が発明され、公開実験されたのは1837年のことです。モールスは実用 化に向けて政府に出資を求めましたが、当初、政府はそれをことわりました。モール ス電信機の将来性を見抜けなかったのでしょう。ようやく政府の出資を受け、ワシン トン〜ボルチモア間の最初の実用的な電信線が完成したのは1844年になってからのこ とでした

評判の芳しくなかったモースの発明は、米国の大統領選の指名結果を鉄道の伝令より早く伝わることで威力を誇示し、ロンドンではロイターがナポレオンの敗戦をいち早く知ることで株式市場で大儲けする方法を開拓し、その後またたく間に普及した。時を同じくして始まった日刊新聞は、電信と輪転機が結び付くことで初めて実現したメディアであり、情報が一般人に伝わるサイクルは週から日へとスケールを超えた変化を遂げた。
電信の普及に従って、予想もしなかったことが起き始めた。株式情報や軍事情報が流れる電信線を盗聴する輩が現れ、それを阻止するためモールス信号の暗号化が行われた。が、それもすぐに解読された。いわゆるハッカーの先祖が出現したのだ。電信を使った結婚を題材にした恋愛小説や(19世紀のパソ婚?)、いままでの事件の因果性を超えた事件を題材にするシャーロック・ホームズのような探偵小説が生まれた。情報伝達のパターンが変ることで新たな詐欺事件や犯罪も起きた。まさに現在のインターネットで起きているようなことが、100年以上も前から起きていたのだ。もちろん、電信は現在のインターネットのように誰でもが直接扱えるメディアではなくその広がりも限られたもので、不特定多数を結ぶものでもなかったが、その即時性は19世紀のヴィクトリア朝に代表される産業革命以降の世界の社会生活全般に革新的なインパクトを与えるものだった。
明治2年(1869)10月23日、東京〜横浜間の電信線の架設工事が始まりました。これを記念して昭和25年(1950)に設けられた記念日で、この日を中心とした1週間が電信電話週間です。

電信機を発明したのは、ご存知のアメリカ人、S・F・B・モース(1791〜1872)です。彼が発明した電信符号がモールス符号と呼ばれるのは、明治時代の日本人が彼の名前であるMorseをモールスと読んだためです。

明治3年1月26日、に東京〜横浜間の電報取り扱いが始まりました。電文があっという間に送受信されるのですから、当時の人はびっくり仰天しました。魔法だとか、電線に娘の生き血が塗られているとか、とんでもない噂も流れて気味悪がる人も大勢だったと言うことです。

しかし、この文明の利器の便利さが理解されるのに時間はかかりませんでした。電線はどんどん延びて、明治10年には北は小樽から南は長崎まで結ばれます。


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