4月


26日
ウィリアム・シェークスピア(William Shakespeare)(1564〜1616)イギリス 詩人 劇作家

イングランド中部のストラトフォードのアボン・エイボンで、革製品職人で羊毛を扱う商人でもあった父ジョンと富農の娘メアリーとの間に長男として生まれました。父は裕福な商人で、一時は町長にも選ばれていましたが、まもなく没落したため、彼はほとんど教育を受けられませんでした。

18歳のとき8歳年長のアン・ハサウェーと結婚しています、1男2女を得ましたが23歳の頃家族を残し、ロンドンに出て劇場に雇われやがて俳優となり、脚本を書くようになりました。

最初はバラ戦争を背景とした「ヘンリー6世」「リチャード3世」、笑劇に近い喜劇『じゃじゃ馬ならし』などを書いていましたが、1594年宮内大臣お抱え一座の幹部座員となるに及んで偉大な劇作家としての本領を発揮しはじめ、有名な「ロミオとジュリエット」「夏の夜の夢」「リチャード2世」などの抒情的な作品を発表、さらに愛の喜劇のなかにシャイロックの悲劇を描いた「ベニスの商人」や「ヘンリー4世」「お気に召すまま」、喜劇「十二夜」を書きました。続く数年間は「悲劇時代」と呼ばれ、「生きるべきか死ぬべきかそれが問題だ」の名訳で有名な「ハムレット」をはじめ、「オセロ」「リア王」「マクベス」の四大悲劇を創作しました。1608年頃から許しと和解を主題にしたいわゆるロマンス劇に転じ「シンベリン」「冬の夜ばなし」単独作としては最後の「テンペスト」を書いています。

シェイクスピアは、作家ではなく脚本家ですので、彼の作品には原作の存在するものも多数存在します。しかし彼は、豊かな感性と才能で、微妙な心理描写を付け加えるなど、人間の喜怒哀楽が会話の中に妙味とともに巧みに描かれており、原作よりも深みのある作品に仕上げているとされています。

1610年頃故郷のストラトフォード・アポン・エイボンに戻り、その後は筆をとることなく、1616年4月23日に病のため亡くなりました。
彼の作品群は主として5つのグループに分類できます。
 ・初期の作品に多いドタバタ喜劇
    空騒ぎ・間違い続き・終りよければ全てよし、など
 ・それに続く時期に多い幸福な喜劇
    お気に召すまま・真夏の夜の夢・ベニスの商人・十二夜、など
 ・ずっと書き続けられた歴史劇
    ヘンリー8世・アントニーとクレオパトラ・ジュリアスシーザー、など
 ・四大悲劇を含む中期の悲劇群
    ハムレット・オセロ・マクベス・リア王・ロミオとジュリエット、など
 ・引退直前の円熟したロマンティックな劇
    冬物語・シンベリン・テンペスト
シェイクスピア当時の劇は現在の劇とは随分雰囲気が違います。主な特徴をあげまると、

・女優を使っていなかったので、女役も男性の俳優によって演じられていた。従ってお気に召すままのロザリンドなどは男性の俳優が女性の役を演じていて、それが物語の中で男装した上、女役を演じる、という3重の性転換を含んでいます。

・小道具の類が無かった。従ってベニスの商人でシャイロックがアントニオにナイフを持って迫るシーンなども演技力だけで雰囲気を出していた。

・現在のような額縁舞台ではなく、回り360度から見られる舞台で演じられていた。そのため今のように観客の方を向いて台詞を言う、といった動作がなかった
子供向けの文学全集などによく収録されている「シェイクスピア物語」は、メアリ・ラム(1764-1847),チャールズ・ラム(1775-1834)姉弟がシェイクスピアの作品を小説化したもので、メアリが心の病を持っていた為、その心を落ち着かせることを目的の一つとして書き綴られたものだそうです。
シェイクスピアデー
シェイクスピアの誕生日は4月23日ではないのか?シェイクスピアは誕生日も命日も4月23日ということで、4月23日がシェイクスピアデーになっていると思われるかたもいると思いますが。

確かに今日一般には4月23日をシェイクスピア・デーとしてお祝いしています。しかしシェイクスピアの洗礼の記録は確かに1564年4月26日になっ ています。当時は通常生まれた日にすぐ洗礼する習慣でしたので、やはり誕生日は4月26日と考えられます。むろん何か特殊な事情で(神父さんが風邪をひいてたとかで)洗礼が遅れた可能性もないとは言えません。

現在4月23日をシェイクスピアデーとしているのは、ひとつはシェイクスピアの命日が1616年の4月23日であること。また4月23日はイギリスの守護聖人であるセント・ジョージ(聖ゲオルグ。スペイン風に言うとサン・ジョルディ)の祝日であることから、イギリスを代表する作家としてふさわしい、というところから来ているようです。

4月


26日
ウジェーヌ・ドラクロワ

(1798〜1863)

「絵を仕上げようとすると決まって、その絵の本来持っていた良さが、
 僅かではあるが損なわれてしまうものだ。」

フランスの画家

パリ近くのシャラントン・サン・モーリスで生ました。彼は、幼い頃から、音感に敏感で、文学にも情熱的で、画の才能もあり、叔父である画家リーズネルは、いち早くそれを見抜き、16歳のとき、当時、有名だった古典派画家ゲランのアトリエへ連れて行った。

18歳のとき、官立美術学校に入学しましたが、彼はルーブル美術館に通い、ルーベンス、ベロネーゼを研究しました。1824年「キオス島の虐殺」で、それまでの静的な古典主義の絵と決別し、明るい色彩と動きのある画面で、ロマン主義芸術を打ち立て、印象主義・象徴主義など、のちの近代絵画の先駆となりました。

彼の作品は、一般には不評でしたが若い人々の間で評判になり、1832年のモロッコ、アルジェリア旅行後は色彩がますます鮮烈になってゆきました。

彼の作品は神話や歴史から題材をとったものや、モロッコ風俗、猛獣狩りなどが多く、代表作には「民衆を導く自由の女神」「アルジェの女たち」があります。また、版画にもすぐれ、日記・評論・書簡も多く残しています。
インターネットで見つけたので、真偽の程はわかりませんが、彼の父はナポレオンの時代の大使シャルル・ドラクロワ。母はルイ16世に仕えた宮廷家具製造家の娘だと言われていますが、実の父親は世界的名声を保持していた、大外交官タレーランではないか、という説もあるそうです。


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