4月


25日
グリエルモ・マルコーニ(Guglielmo Marconi)(1874〜1937) イタリア 発明家

北イタリアの豊かな地主の次男に生まれました。リボルノの工業学校で物理学を学びました。有名な電気学者リギの指導を受け、H・ヘルツの電磁波の発見を知り、電波の研究に打ち込み、これを通信装置に応用することを試みて成功し、1895年ついに無線電信を発明しました。

ちなみに、実験は自宅の屋根裏部屋で行われ、自宅の窓からモールス信号で、2・
4kmの通信に成功しました。これが無線通信の最初です。

その翌年ロンドンに渡り、イギリスでの無線電信の特許を取るとともに、1897年ロンドンの資本家と協力して、世界ではじめての無線電信会社を作りました(マルコーニ無線会社)。1898年イギリス海峡を隔てての無線通信に成功し、その後、イタリア、アメリカなどに無線電信会社を設立。さらに年々改良を加えて通信距離を延ばし、1901年には、大西洋を隔てての無線通信にも成功した。

大洋の無線通信は海底電信業者からの強い反発を受けましたが、船舶間の通信や、陸地と船舶との通信に役立つため、マルコーニの会社がこの事業を独占しました。

彼は1902年磁針検波器を、1907年円板放電器を発明しています。第1次世界大戦中には、短波の長所に注目し、その後は短波通信技術の開発に尽力しました。

1909年K・ブラウンとともにノーベル物理学賞を受賞したほか、1919年にはパリ講和会議のイタリア全権大使、1929年に侯爵に叙せられるとともに上院議員に任命され、また1930年イタリア王立アカデミー総裁に選ばれました。

1933年(昭和8年)には日本を訪れています。
1900年代はじめには、多くの商船、定期船、軍艦が無線を装備するようになります。1909年、アメリカのリパブリック号とイタリアのフロリダ号が濃霧のためアメリカ東海岸沖で衝突。リパブリック号からの信号を受け救出船が30分以内に現場に到着、1700名もの乗客の救助が成功したといわれています。この出来事は世界の注目を大いに集め、若きイタリア青年マルコーニの事業を一大躍進させることとなったのです。
二極真空間の発明者でありまたマルコーニ会社の顧問でもあったアンブローズ・フレミング教授は、マルコーニのことを次のように述べているそうです。「彼はまず何よりも実利主義であった。その主な関心は、純粋に科学的な知識の追求自体にあるのでなく、有用な目的にそれを応用するところにあった……。」

ラザフォードがはじめて行った研究はヘルツ波の磁気検波についてでしたが、このときラザフォードが作った磁気検波器は、半マイル先で電波をキャッチしたといわれています。ラザフォードの実力と環境から考えるとこのまま研究を続けたら、おそらくラザフォードが無線通信の実用化を一番に成し遂げていただろうと思われます。

しかし、ラザフォードは科学者であって、技術者ではありませんでした。科学者という人種にとっては、ひとつの可能性が実現されたらそれで十分なので、それを改良して性能をあげることは、彼にとって意味のないことなのです。一方、技術者の使命は、原理的に実現されたものをより一層洗練されたものにし、より多目的な実用性を与えることにあります。ふたりの天才のその後の進み方を見るときこの典型的な対比があらわれているように思えます。
日本における無線通信の研究は、マルコーニがイギリスへ渡った翌年の1897年(明治30年)に逓信省電気試験所で開始されました。

 この年、電気試験所電信係主任・松代松之助がヘルツの実験を参考に東京湾の月島海岸で日本最初の公開実験を行って成功し、日本の無線通信発達の基になりました。
ハインリヒ・ルドルフ・ヘルツ(1857〜1894)ドイツ 物理学者
電波、磁波が光波と同一性質をもつことを実証。「ヘルツの実験」は有名。著「電気力の展開に関する研究」など。

カール・ブラウン(1850〜1918)ドイツ 物理学者
ブラウン管の発明、電気計の改良、無線電信の研究などの業績がある。

4月


25日
オリバー・クロムウェル( Oriver Cromwell)

(1599〜1658)

イギリスの政治家

ハンチンドン州に生まれました。清教徒の厳しい家庭に育ち、ケンブリッジ大学に学び、ロンドンで法律を勉強しました。1642年に清教徒革命がおきると彼は軍人として活躍し、素人の集団であった軍隊を、信仰でむすばれた士気の高い騎兵へと育て上げました。それは無敵の精鋭軍となり「鉄騎兵」と呼ばれ、王党軍をけちらしたのです。

彼の活躍のおかげで、国王のチャールズ1世は捕らえられ処刑されて、英国史上、例のない共和制がひかれました。

その後、スコットランドが皇太子のチャールズ (のちのチャールズ2世 ) を王と宣言しましたが、共和国軍は遠征して反対派を制圧、その後、議会と軍との対立が激化しましたが、彼は武力で議会を解散し、1658年には、護国卿(ロード・オブ・プロテクター)となって独裁政治を行なうようになりました。

彼は、イギリスの海外貿易発展をはかり、オランダやスペインと海上の覇権をめぐって戦い勝利を収め、その後のイギリスの海上覇権の基礎を築きました。

しかし、彼の政治はきびしい清教主義に基づいて行われ、劇場の閉鎖や賭博、売春の禁止など庶民の楽しみを奪ったため、国内で不満を招き政局は安定しないまま、彼は病気で亡くなってしまいました。
彼の死後、彼の息子が護国卿に就任しましたが、人望が無く就任後わずか8ヶ月で辞任に追い込まれます。そして、1660年には、フランスに亡命していた皇太子のチャールズが帰国してチャールズ2世として即位して、わずか2年で共和制は終了し、王政にもどったのでした(王政復古)。 
チャールズ2世が即位すると、今度はクロムウエルは国王のチャールズ1世を処刑した極悪人として、彼の遺骸はウェストミンスタ−寺院の墓から掘り起こされ、王の命日に絞首台につるされたのでした。それだけではなく、彼の首は寺院の屋根の尖柱に、なんと25年もさらされるのでした。
その後、彼の首は、嵐で地面に落ち、こんどは、骨董品として、好事家の手を渡り歩き、ようやく今世紀初頭になって彼の母校であるシドニー・サセックス・カレッジに埋葬されたということです。
「失楽園」の著者である詩人ジョン・ミルトンはクロムウェルの親友であり、 共和制議会では彼を助けて書記官となったりもしたそうです。

清教徒革命 
ピューリタン革命ともいい、清教徒が中心になって絶対王政をたおした市民革命。ピューリタン革命ともいう。チャールズ1世の専制政治に議会(下院)が反抗、1642年、国王派と武力衝突して内乱となった。戦況は初めは王党派が優勢であったが、議会派のクロムウェルが、国王派をやぶって王を処刑し(1649年)、共和国をたてた。


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