4月


22日
マヌエル・カント(Immanuel Kant)(1724〜1804)ドイツ 哲学者

1724年に東プロイセンのケーニヒスブルクという町の馬具職人の家に9人兄妹の4人目に生まれました。彼は、生涯のほとんどをこの町で過ごし、その生涯は全く単調で、何の事件もありませんでした。カントの一家は厳格なキリスト教徒で、そのため、キリスト教の信仰がカント哲学の重要な土台になっているといわれています。

家は貧しく、13歳の時母を失い、ケーニヒスブルグ大学卒業の年に父を失いました。大学で哲学、数学、物理学を学び、卒業後は、家庭教師を長い間つとめ、1755年ケーニヒスベルク大学私講師。その後、エルランゲン、イェナ各大学から招かれましたが固辞し、1770年ケーニヒスベルク大学の論理学、形而上学教授となりました。

哲学者としての彼は「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」などの本を著し、人間の心の中には、感情にとらわれないで物事を考え、判断する理性があり、そのために人は正しく物事を考えていくものだと説いています。その哲学は、フィヒテ、ヘーゲルに受け継がれ、ドイツ近代哲学が完成されました。

彼の生活はきびしく、散歩する時は一分の狂いもなく、通る道も毎日決まっていたと言われています。
その哲学の根本問題は普遍妥当的認識の先験的可能性を探求することにあり、認識の対象は認識作用を通じてはじめて主観によって構成され可能となる。すなわち対象は悟性に依準する(コペルニクス的転回)と説くと同時に、理性能力を批判することによって認識を可能な経験の範囲に限り、その限界内で認識は成立すると主張した。そして理論、理性は現象界の背後に予想される「物自体」を認識することができず、これに反して理論、理性の証明し得ない神の存在、霊魂の不滅、自由の必然性が実践理性によって要請され、真の道徳的価値は義務のために義務を果たす意志にあるとした。
カントはデカルトやスピノザの合理主義にも、ロックやバークリやヒュームの経験主義にもくわしかった。合理主義者たちは、「あらゆる認識の基礎は初めから意識の中にある」と考え、経験主義者たちは、「世界についてのあらゆる知識は感覚から引き出せる」と考えていた。さらに経験主義者であったヒュームは、「感覚から引き出せる結論には限界がある」、とこれに付け加えた。
カントは、私達が何かをするとき「同じ状況なら誰もが同じことを望む」と確信できなければならないとした。これを「定言的な命法」という。つまり道徳律である。この反対が「仮言的命法」で、「これこれの場合にはこれこれのことをしなさい」、という条件つきの命令である。道徳律は、条件つきの命令など決してしない。「どんな状況でもそうしなさい」、ということを私達に教えるものだからだ。道徳律は、どんな経験よりも前にある、あらゆる状況に無条件にあてはまる命令とされる。

カントは「定言的な命法」をこんなふうにも述べている。「ほかの人を常に目的そのものとしてあつかうべきで、なにかの手段としてだけあつかってはならない(自分が得をするために他人を利用してはならない)」。カントは他人だけではなく、自分自身も何かを得るための手段に使ってはならないとした。

「あなたが欲することを人にもしなさい」というイエスの言葉がある。しかし、誰かに好かれるためだけになにかをする、またはしてあげるという行為は、道徳律にそった行動では決してない。頭ごなしに悪いとは言えないまでも、これはかっこうだけ道徳律にそってふるまっているということでしかない。カントは、「道徳的なふるまいは、自分の損得を乗り越えた結果、出てくるものでなくてはならない」としている。つまり、行動が道徳的に正しいかどうかを決めるのは行動の結果ではなくて心構えなのである。道徳律を心にとめて行動している、と自覚しているときだけ、私達は自由意志でいられるのだ。
カントは、デカルトと同じく「人間にはふたつの面がある」と考えた。「人間は身体と精神をもつ二重の存在だ」と。しかし、そのいっぽうで、感覚的な存在としての私達が何を感じ取るかは、自分では決められないとも考えた。感覚は、苦しさもつらさも、どうしようもなくつれてきて、望もうと望むまいと私達にそれを押しつける。人はどんな奴隷にもなれる。それこそ自分のエゴイズムの奴隷にだってなれる。しかし、私達は感覚的存在であるだけではない。もういっぽうで理性的存在でもあるのだ。私達は、感覚的存在としてはがんじがらめにとらわれている。そこには自由意志もない。しかし、理性的存在としての私達は「世界そのもの」、つまり私達の感覚から独立した世界の一員なのだ。私達は、実践理性にしたがって道徳上正しい選択ができたときだけ、自由でいられる。例えば、「ほかの人にズルはいけない、と言っているのは自分か、自分のなかのなにか」と感じたとき、たとえ自分の損になってもズルはよそうと自分で決めたのなら、その人は間違いなく自由意志で行動したのだ。
フィヒテ(1762〜1814)
ドイツの哲学者。一八世紀末〜一九世紀のドイツ初期ロマン主義の心情を土台として、カントの実践哲学を発展させ、意志主義的・理想主義的哲学を展開した。人間精神を自我意識とみなし、カントの道徳的自由を主体的にとらえ、また実践により認識を基礎づける人間精神の形而上学を樹立した。フランス占領下のベルリンで行った講演「ドイツ国民に告ぐ」は有名。主著「全知識学の基礎」「人間の使命」。

ヘーゲル(1770〜1831)
ドイツの哲学者。ドイツ観念論の完成者。自然・歴史・精神の全世界を不断の変化・発展の過程としてとらえ、これを絶対精神の弁証法的発展とみなし、それを学的に把握するのが哲学であるとした。その正・反・合を基本運動とする弁証法の原理はマルクス主義に批判的に継承された。主著「精神現象学」「論理学」「法律哲学綱要」「エンチクロペディ」など。

4月


22日
イサベル(イサベラ)

(1451〜1504)

スペインの女王

スペインの北部のカスチリアの王女として生まれました。しかし、彼女が3歳の時、父が亡くなると、新しく即位した、異母兄であるカスティリア王エンリケ4世 (不能王)によって幽閉され、母も精神に異常をきたしてしまうのでした。

その後、この異母兄と和解し相続者となった彼女は、アラゴン王フェルジナンドと結婚。この結婚によってカスティーリャとアラゴンが統一され、スペイン王国が成立し、彼女は、その女王となったのです。

彼女は内政に力を尽くし、夫のフェルディナンドは主にイタリア方面での外戦にあたり、スペインはばらばらに分裂した状態から、 近代国家としての体裁を整え始めることができたといわれています。

さらに、彼女ら夫婦は、イスラム教の最後の拠点グラナダを征服し、イベリア半島よりイスラム勢力を追い出し、自国の領土を確立し「カトリック夫婦王」と呼ばれました。

その後、彼女はコロンブスを援助して、新大陸発見の大成功をまねき、スペインの海外発展の基礎を固めていったのです。

1504年、彼女は最愛の娘ファーナの後見を夫に頼み亡くなりました。五十三歳でした。
彼女は熱心なカトリッック信者で、法王から「もっとも熱心なカトリック」という尊称を与えられています。彼女は、全ての国民を分け隔てなく愛し、コロンブスの発見により、手に入れた西インド諸島に対しても勅令を出し、彼らを征服するのではなく、対等な関係で交易を行っています。しかし、コロンブスは、反乱を起こした原住民を奴隷としてスペイン本国に送り出し、このことによって、イサベル女王の怒りをかっています。
王女ファナはフェリペ一世(美男王)と結婚しましたが、愛する夫の死にショックを受けて発狂してしまったということです。しかし、ファーナの息子カルロスによって神聖ローマ帝国、スペイン王国は大帝国として栄えていったのです。


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