4月


21日
フリードリヒ・ウィルヘルム・アウグスト・フレーベル(Friedrich Wilhelm August Frovel)

(1782〜1852) ドイツ 教育家

ドイツのオーバーヴァイスバハという小さな村に生まれ、5人の兄姉がいました。父親は厳格な牧師でした。母親は彼が生後9ヶ月のとき亡くなっています。

4歳のとき父親が再婚しますが、新しい母親とうまくいかず、彼は淋しい子ども時代を送りました。フレーベルは10歳のとき伯父ホフマンにひきとられ、はじめて暖かな家庭生活を経験しました。こうした体験がのちに幼児期の教育を重視することの遠因になったといわれています

1799年、イエナ大学に入学し、ここでシラー、シェリングなどドイツ・ロマン主義の影響をうけましたが。授業料が払えずに退学せざるをえなくなりました。しかたなく山林書記、農業書記の仕事をした後、建築家をめざしてフランクフルトに出かけました

1805年にフランクフルトで仕事を探していましたが、不運にも履歴書をなくし、そのとき友人の紹介で訪れたのがペスタロッチ主義者グルーナーの師範学校でした。このとき、彼は教職を天職と自覚し、このときの気持ちを「わたしは空を飛ぶ鳥、水のなかを泳ぐ魚のように幸せだ」と書いています。

1816年、ドイツで自分の学園を作りますが、その後、スイスに招かれて孤児院の院長を務めました。1837年にドイツに戻り、バート・ブランケンブルクで最初は幼児の遊びの道具として 教育遊具(恩物)を考案・制作し広めようとしました。また自分の教育についての考えを広めるために雑誌(『日曜誌』)も発刊。多くの人に幼児教育の大切さを知って欲しいと考えた彼は、教育遊具を使って幼児を指導する先生を養成し、実際に幼児を指導する場を創ろうと考えました。こうして創られた施設が一般ドイツキンダーガルテン(今日でいう幼稚園)です。世界初の幼稚園の設立、それは1840年6月28日のことでした。

彼の考えを理解してくれる人はしだいに増え、ドイツのいくつかの都市で幼稚園が作られました。また幼稚園で指導する先生の養成もおこなわれるようになりました。彼はこうして家庭の両親にも、そして世の人々にも幼児教育の大切さを訴えました。1844年に家庭向けの育児書である 『母の歌と愛撫の歌』を出版しました。

こうしてドイツで幼稚園が広まり始めたころ、プロイセン政府が突然弾圧をはじめ、幼稚園禁止令を出しました。彼の心痛はひどく、やがて病にたおれ、とうとう1852年に失意のうちに亡くなりました。
フレーベルの主著は『人間の教育』(1826)である。巻頭にフレーベルの思想の宣言ともいえる言葉がある。

 万物の使命および天職は、その本質(中略)を発展させながら立派に作り出してゆくことである。知性的および理性的なものとしての人間の特別の使命および天職は、神の本質、彼の神的なもの、したがって神と彼の使命および天職とを完全に自覚し、生き生きと認識し、明晰に洞察し、もって彼の本質を決断と自由とをもって自分の生活において完成し、活発にし、顕現してゆくことである。
 内面的な法則すなわち神的なものを、自覚と決断とをもって純粋完全に実現することに向かって、自覚的、思考的、知性的存在としての人間を刺戟し取り扱うこと、およびそのための道と手段とを提供することが、人間の教育である。
フレーベルは、幼児に、神と自然と人間のいっさいを認識させようとして、遊具「恩物(Gaben)」を開発しました。それは、毬や、球体や立方体や円錐のような、単純な形のもので考案された遊具で、それらには、大自然のいっさいの多様な構造に発展する、基本的要素が含まれているのです。幼児達は遊具を用いて遊戯を楽しみ、紙折り、板組み、粘土細工などの作業に励むことになります。それらを通じて、個性を自覚し、社会性を養い、創造の働きを発揮していくことになるのです。
フレーベルの考えを理解してくれる人はしだいに増え、ドイツのいくつかの都市で幼稚園が作られました。また幼稚園で指導する先生の養成もおこなわれるようになりました。幼稚園の先生を希望する人は女性が多く、次第に女性の専門職としてみなされるようになりました。


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