4月


20日
犬養毅(いぬかいつよし)1855〜1932 政治家

備中国庭瀬村字川入(現在の岡山市川入)の大庄屋犬養家で、父源佐衛門、母嵯峨の次男として誕生しました。幼名は仙次郎。父は儒学者で、毅も7歳から漢学を、また11茂から経学を学び、すぐれた才能を発揮しました。

14歳のときに父が亡くなり、学資を作るために家の一室に寺子屋を開き、松窓塾に通いながら近所の子ども達に習字を教えました。先生の松窓が倉敷の明倫館に招かれたので、彼も倉敷に行き下宿しながら明倫館で学びました。

東京へ出て慶応義塾に入学。在学中、西南戦争が起こると報知新聞の通信員として従軍し、城山がおちるまで100数回にわたって記事を送っています。しかし、明治13年に、首席になれないくやしさから卒業を目前にして同塾を退学しています。

それから新聞人の道を進み、「郵便報知」の有力記者となります。又、東京府会議員に当選し、(明治23年の退任まで、改選ごとに当選)政界にも籍を置いていました。その後、日本ではじめての衆議院議員の総選挙(明治23年)に故郷の岡山から立候補して当選し、以来毎回当選しています。

一貫して政党政治の確立に貢献し、「憲政の神様」といわれました。この間、明治31年大隈内閣の文部大臣、大正12年第2次山本内閣の通信大臣兼文部大臣、大正13年加藤内閣の遮信大臣などを歴任。 また、中国辛亥革命の前後には中国革命工作を支援し、辛亥革命の指導者「孫文」らとは親交が深かったといわれています。

昭和6年、政友会総裁として首相になり、翌年満州事変を中国との話し合いによって解決しようと苦心していたさなかに、青年将校に襲われ殺されました(5・15事件)。彼は「話すこと、議すること」を信条とする議会政治家で、このときも、撃たれる前に、七八歳の老首相は「話せばわかる」と落ちついた声で言ったと伝えられています。

書にもすぐれ、中国の政治家との親交も深く、情に厚い政治家としても知られていました。
三月一日、満州国が溥儀を頭首として建国宣言しました。国際連合からリットン調査団が派遣される一方、犬養内閣は満州国不承認の方向へ舵を取り、独走した軍部との対立色を深めてゆきます。犬養は、女婿の芳沢謙吉外相に対し、中堅将校の「処士横義」を批判した上、陛下と閑院宮参謀総長の承認を得て、三十人くらいの青年将校を免官にしたい、と洩らして芳沢に制止されたこともありました。しかし、その機会はついに永遠に来なかったのです。

 昭和七(1932)年五月十五日、首相官邸を三上卓海軍中尉ほか数名が首相官邸に押し入り、犬養首相に対面しました。犬養は、「話せば判る」と彼らを客間に導き、「他人の家に靴履きで上がるとはなにごとか」と一喝したのです。しかし、闖入者たちは、「われわれが何をしにきたかわかるだろう、言いたいことがあれば言え」と言い放ち、犬養が身を乗り出して駁論しようとした瞬間、「問答無用、撃て!」と発砲したのです。闖入者たちはそのまま立ち去ったのですが、犬養は「もう一度あれらを呼んでこい、判るように話してやる」と最後まで説得を試みたのですが、それもむなしく、翌日、息を引き取ってしまいました。
5.15事件
昭和七年五月一五日、海軍の青年将校、陸軍士官学校生徒などが、首相官邸、政友会本部、警視庁、内大臣牧野伸顕邸、日本銀行などを襲撃、犬養首相を射殺した事件。


   トップページに     今日生まれの偉人伝に