4月


17日
板垣退助(1837〜1919)政治家

高知に生まれ、土佐藩士として江戸づとめをしたり、土佐に帰って殿様の山内容堂に仕えたりしています。彼は容堂の希望により、藩の議論を統幕に統一しようとしました。1868年(慶応3年)京都に出て翌年、鳥羽伏見の戦いに参加し、つづいて江戸、東北地方に向かい、会津若松城を攻めおとしています。

戦いが終わって土佐へ帰り、藩の家老となった退助は、全国の藩を廃止してかわりに県を置くことになった1871年(明治4年)に、明治新政府の参議という高い位につきました。

しかし、彼は、この新しい政府が不満でした。重要な役についていたのは、幕府を倒すことに大きな功績のあった薩摩藩と長州藩の出身者が、ほとんどで、薩摩と長州出身者の意見ばかりが、まかりとおっていたからです。

その後、西郷隆盛らとともに征韓論をとなえましたが、大久保利通らの反対で征韓論はとりやめになり、退助は、怒った西郷隆盛といっしょに、政府を去ってしまいました。

「政治が、ひとにぎりの人間によって動かされているのはおかしい。選挙でえらばれた国民の代表が、政治をおこなうようにしたい。わたしは、これに一生をかける」退助は、鹿児島へひきあげる隆盛に、このように語りかけ、つぎの年の1874年には、はやくも民選議員設立建白書を政府にさしだして、自分の考えを実行にうつしていきました。これは、国会を開けという、日本で初めての要求です。

 ところが、政府からは、まったく相手にされず、同年4月高知に立志社を創立して自由民権運動に挺身しました。1881年(明治14年)日本で最初の全国政党自由党が結成されると推されて総裁に就任しました。

明治15年、遊説の途上、岐阜中教院で刺客に襲われ、とっさに「吾死スルトモ自由ハ死セジ」との言葉を発した。この言葉が、のちに修飾され「板垣死すとも自由は死せず」の名言として残ったと言われています。

のち伊藤内閣の内務大臣となり、つづいて大隈重信と内閣を作って、その内務大臣となった。政党を育てるために努力し、64歳で政界から身をひいています。

政界を退いてからは、労働者の保護・盲人教育などの社会福祉事業にたずさわりました。晩年はかなり貧しい暮らしぶりであったといわれています。

江戸末期から明治・大正と生きぬき、82歳の高齢で世を去りました。
征韓論
明治六年、参議西郷隆盛らが、韓国の排日・鎖国の態度に対して武力で討つことを主張した論。木戸孝允・大久保利通ら内治優先派の反対によって挫折し、西郷以下副島種臣・後藤象二郎・板垣退助・江藤新平ら征韓派は辞職。
明治15年11月彼は、後藤象二郎とともに外遊したのですが、その費用の出所をめぐって立憲改進党などからの攻撃を受け、馬場辰猪・大石正巳ら自由党幹部党員の離反を招くなど、自由民権運動に深刻な亀裂をもたらしてしまいました。彼は、馬場・大石らに「他日若し今回の事件にして、余に一点汚穢の事実の確証する者あらば、余は諸君に対して、其罪を謝するに割腹を以てせん」と誓約したのですが、その洋行費が自由党の弱体化をねらった伊藤博文・井上馨らの策により、三井から出たものであることが、今日、立証されているということです。

結局、彼は、その策謀にはまり、明治16年6月の帰国早々から自由党解党の意向を高知の同志に表明し、17年10月、ついに自由党は3年の活動の足跡を残して解党してしまったのです。

のちに歴史家服部之総は、板垣遭難を頂点に自由民権運動の退潮が始まった事を皮肉り、「板垣の代わりに自由が死んだ」と評したそうです。
彼は、明治15(1882)年4月6日、岐阜での演説会にて暴漢に襲われました。自由党総理である退助が襲われたということで党内は騒然となり、賊は政府の放った刺客ではないかとも噂され、驚いた政府が鎮撫のため天皇から退助に勅使を派遣するという騒ぎにまでなったそうです。


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