4月


16日
チャールズ・スペンサー・チャップリン(Charles Spencer Chaplin)

(1889〜1977)アメリカ 喜劇映画俳優 映画作家

ロンドンのケニントン・ロード287番地にて、フランス系イギリス人の父チャールズ・チャップリンと母ハンナ・ヒルとの間に生まれました。父はミュージックホールの歌手、母もまた踊り子(兼、歌手)として生計を立てていました。のちに喜劇俳優、兼チャーリーのマネジャーとなる兄のシドニーは、母親の前の結婚相手との間の子供(異父兄)です。

1890年、「第1次恐慌」のこの頃、英国でも不況の波がチャップリン一家の収入を激減させ、父チャールズがアルコール中毒になり、結局、両親は離婚。母ハンナは息子のシドニーとチャーリーの二人を自分の歌手としての収入で育てることとなります。

母がまだ健康だったこの頃、ミュージックホールで歌手として働く彼女の収入は、シドニーやチャーリーとの三人の生活を支えてゆくのに問題のない額で、3人はつつましくも幸せな日々をおくります。しかし、1894年、母が心労と肉体の疲労のために声が出なくなり、幼いチャーリーが代わりに舞台に立つようになります、が、翌年、母親が失業し家族は貧窮生活に陥ってしまいます。その後、母が精神的に破綻、チャーリーは兄と共にロンドン郊外のイーリングにあるハンウェル・レジデンシャル・スクールという孤児院にひきとられます。

1898年、やっとチャーリーは孤児院を出て、そして快復した母ハンナと二人で、ロンドン・ランベス、パウナル・テラス三番地の屋根裏部屋を借りて暮らし始めます。母は婦人服仕立ての内職、兄のシドニーは電信技手、そしてチャーリーはミュージックホール出演などで、3人が助け合いながら生計を立てていきます。

その後、彼は23歳の時、映画関係者の目にとまったことをきっかけに、ハリウッドに渡り映画の世界に入ります。山高帽、ちょびひげ、だぶだぶのズボンの扮装を考え出しました。「成功争い」を第一作として、多くの短編的喜劇で人気を集め「チャップリンの勇敢」「チャップリンの移民」などが、とくに注目された。つづいて「キッド」「偽牧師」によって喜劇俳優として大成し、1925年の「黄金狂時代」によって世評を高めました。「街の灯」「モダン・タイムス」をへて、「殺人狂時代」「ライムライト」「ニューヨークの王様」を製作、天才的な喜劇俳優であるとともに、戦争や社会を風刺してその芸術家気質を示しました。

12月25日午前4時、クリスマスの早朝にスイス、ヴヴェーの自宅でチャーリーは永遠の眠りに就きました。彼の葬儀にはスペインで映画の撮影に入っていた長女ジェラルディンを除く全家族が出席し、一家の長であり、また不世出の映画作家であったチャーリーを見送りました。
そしてチャーリーとの因縁めいたトピックが2つ。
チャーリー・チャップリンが生まれた1889年に、米国では「天才にして、事業野心に燃えた男」トマス・アルバ・エジソンが「キネト・スコープ」の前身ともいえる活動写真技術への着想を得ていました。
また、オーストリア王国のブラウナウでは後の「狂気の独裁者」アドルフ・ヒトラーが誕生していたのです。
彼は、1908年、カルノ一座の巡業生活の中、一座のコメディアンであるアーサー・ケリーと親しくなり、彼の妹である15歳の少女ヘティに恋をします。彼女も同劇団の踊り子でした。たった5回のデートを重ねただけのこの恋は彼女の若さ故に儚く終わることになりましたが、この初恋はチャーリーの永遠に忘れられぬものとなったということです。
チャップリン最初の悲劇的なメロドラマである「A WOMAN OF PARIS(巴里の女性)」(主演 エドナ・パービアンス、アドルフ・マンジュー)がニューヨークのリリック劇場で封切りされました。この映画はチャップリンがエドナの為に演技派としての新境地を開かせようと監督に専念した名作であり、心理描写の細やかさは批評家や同業監督達の絶賛を浴びましたが、彼の作品に「滑稽さ」を期待した一般大衆からは目を背けられることになります。
彼の映画に欠くことのできなかったヒロイン「エドナ」はこの映画以降、事実上全ての映画から姿を消すことになります。彼はおそらくエドナを愛していたのでしょう。映画女優として成立しなくなった後も、チャーリーが彼女に対して「チャップリン・スタジオの専属女優としての給与」を毎週送付していたことはよく知られています。
1943年1月にチャーリーは一人の少女と運命的な出会いをします。それは劇作家ユージン・オニールの娘ウーナ・オニールで、女優志願だった彼女はチャーリーのアドバイスを受けようとして彼に会いに来ました。この時、チャーリーは52歳、ウーナは18歳でした。お互いに惹かれあうものを感じていたチャーリーとウーナは6月16日に結婚し、2ヶ月のハニームーンをサンタ・バーバラで過ごした。二人はこの後、文字通り「死が分かつまで」の人生を共に歩むことになります。
彼が親日家であったことは知られていますが、その大きな要因になったのは彼の優秀な秘書として長年つとめた「高野虎市氏」の存在があります。後にチャーリーがポーレット・ゴダードを妻に迎え、彼女の中傷によって秘書を解雇されるまで高野氏はチャーリーの肉親のような存在でもあったということです。

4月


16日
ウイルバー・ライト

(1867〜1912)

アメリカの飛行機製作者 ライト兄弟(兄)

オハイオ州の牧師の3男として生まれました。一般的にライト兄弟といえば、彼と5男のオービルを指します。彼ら2人は特に仲がよく「一緒に住み、一緒に遊び、一緒に働き、考えるのも一緒だった」というぐらいでした。また、彼らは幼い時から機械類にすぐれた才能を発揮していました。この器用さは母親ゆずりと言われています。

しかし、18歳のとき彼は高校でホッケーの試合で大怪我をして高校を中退。そして、弟も母親の病気のために18歳で高校を中退しています。しかし2人は子供のときから商売熱心で、協力して商売を始めることにしました。当初は、印刷機を自作し新聞事業を行なっていましたが、その後は、兄弟共同でライト自転車商会を作っています。

その後、彼らは「ドイツのリリエンタールが自分で製作したグライダーで試験飛行中に墜落死した」というニュースを聞いて、飛行機の発明研究を志すようになったのです。

彼らは、飛行に関する資料を取り寄せ、また、リリエンタールの本を読み、グライダーの研究を行いました。そして、1900年から1902年にかけてグライダーでの実験を行い、1000回にも及ぶ試験飛行を行い、空中での操縦方法を開発習得していったのです。

そして、1903年12月17日、北カロライナ州のキティホークの寂しい丘で、兄弟は「フライヤー」と名づけた動力飛行機を世界で初めて59秒間、距離にして247メートル飛ばすことに成功したのでした。

彼らは、その後も飛行機の改良に努め、現在の航空機の発達の基礎を築いていったのでした。その後、兄ウィルバーはライト航空会社を創立し、弟オービルは研究者として、兄弟そろってアメリカ航空技術の発展に貢献したのでした。


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