4月


13日
トーマス・ジェファーソン(Thomas Jefferson)(1743〜1826)政治家 アメリカ第三代大統領
 
バージニア植民地のプランター (大農場主) の家に生れました。1762年ウィリアム・アンド・メアリー大学卒業。1767年弁護士となりました。 1769〜1774年バージニア植民地議会議員。独立運動の指導者となり1773年R.リー、P.ヘンリーらとともにバージニア通信連絡委員会を組織。1774年の第一回大陸会議にバージニア代表として出席し、翌年の第2回会議にも、代表となった。B.フランクリン、J.アダムズらとともに独立宣言起草委員に指名され、歴史的文章である、独立宣言草案を執筆しました。

1779年バージニア州知事に選ばれ、1783〜85年再び大陸会議代表。1785〜89年フランス駐在公使として同盟国フランスとの友好維持にあたった。1790〜93年G.ワシントン大統領のもとで初代国務長官。財務長官A.ハミルトンをはじめとする連邦派に対抗してリパブリカンズ (共和派) の代表的存在となり,アメリカにおける政党誕生の礎をつくった。1797〜1801年アダムズ大統領のもとで副大統領をつとめ、1801年に第3代大統領に就任しました。大統領としてはハミルトン路線を継承しました。

1803年ナポレオン治下のフランスと交渉し、「ルイジアナ購入」に成功。わずか1500万ドルの支出によってアメリカの領土は一躍2倍になり、西部へと向かう白人のための基礎となりました。

ナポレオン戦争では中立政策を維持。第2期の大統領任期終了とともにバージニア州モンティセロのプランテーションに引退、バージニア大学を設立してその学長となりました。
大陸会議
アメリカ独立革命 (→アメリカ独立戦争 ) の際の十三植民地の中央組織。第1回会議は、1774年イギリス本国議会が成立させた「耐えがたい諸法 (懲罰諸法) 」に対処するため、同年9月5日からフィラデルフィアでジョージアを除く 12植民地の代表によって開かれた。この会議は本国の圧政から植民地の権利と自由を守るための決議、大陸不買同盟の結成などをして 10月 26日解散。第2回会議は、75年5月 10日から 13邦の代表が参集して開かれ、本国との和解を希望しながらも、G.ワシントンを植民地軍の総司令官に任命、翌年春には独立に踏切り、7月2日にアメリカ独立宣言を採択、4日正式に公布。 77年 11月アメリカ合衆国初の憲法ともいうべき「連合規約」を承認した。 81年メリーランドの批准により正式に「連合規約」が成立したのちも,大陸会議は連合会議とも呼ばれて存続し、88年連邦憲法の発効とともに消滅した。
アメリカ独立宣言
北アメリカ十三植民地が、イギリス本国からの独立を宣言した文書。独立宣言起草委員会委員の一人 T.ジェファーソンにより起草され、大陸会議で若干の検討、修正が加えられたのち、1776年7月4日公布された。
内容は
(1) 基本的人権と、それを侵害する政府に対する革命権の主張から成る前文,
(2) 革命権行使の理由としての国王の暴政 28ヵ条の列挙と、本国議会、本国民の背信への非難を述べた本文
(3) 独立を宣言した後文
の3部分から成る。ことに自然法に基づく前文は,アメリカ独立革命 (→アメリカ独立戦争 ) の理論的根拠を述べたものとして有名である。
ルイジアナ購入
1803年アメリカがナポレオン1世から北アメリカ大陸のミシシッピ川西岸の広大なフランス領ルイジアナを購入した事件。 1800年ナポレオン1世に征服されたスペインはルイジアナをフランスに移譲した。これを知ったアメリカは大きな脅威を感じ,大統領 T.ジェファーソンはフランス駐在公使 R.リビングストン、特命全権公使 J.モンローにニューオーリンズと北緯 31°から南のメキシコ湾一帯 (ウェストフロリダ) の購入交渉を命じた。一方ナポレオンはサントドマング (ハイチ) の反乱に直面、またイギリスの脅威を受けてルイジアナの維持を困難と認め、03年5月,8000万フラン (1500万ドル) で、ジェファーソンの指示した範囲をこえて全ルイジアナ (約 214万 km2) の領有権をアメリカに売却した。これによってアメリカの領土は一躍2倍になり西部への発展の道が開けた。この購入はアメリカ史上で最も買い得なものであったといわれる。なおジェファーソンの行為は,憲法上は大統領の越権行為とみなしうるものであったが、上院はこの条約を大差で承認した。


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