4月


5日
ヘルベルト・フォン・カラヤン(1908〜1989)オーストリア 指揮者

1908年、貴族であり医者でもある父エルンスト、母マルタ・コスマチの次男としてモーツァルトの生地ザルツブルグに生まれました。カラヤンの兄はヴォルフガングといって、3歳からピアノのレッスンを受けており、そしてその影響で、彼はピアノを始めたといわれています。

4歳の時に聴衆の前で演奏を初めて披露した彼は、翌年の同じコンサートでもピアノを弾いて、「ザルツブルグに神童現る!」と大評判になりました。しかし、父は彼がピアニストになることに反対していたらしく、成長した彼は1926年、その言を聞き入れるかのように、一度、ウィーン工科大学に入学しています。

その後、彼はウィーンで同時にピアノも習うことになり、ウィーン音楽アカデミーのヨーゼフ・ホフマン教授に師事しました。結局、工科大学は1928年に退学してしまいました。ところが、関節炎でピアノが弾けなくなり、先生に説得されたこともあって、指揮者への道を歩むことになります。彼は、そうしてウィーン国立音楽院の指揮クラスの学生となり、猛勉強を重ねました。寸暇を惜しむようにして学習に励み、国立歌劇場へ通いました。やはり、後に名を成す多くの指揮者と同様、ここでは、恐るべき勤勉さを発揮しています。

そしてウィーン音楽院指揮科を1929年1月に修了。彼はウルム市歌劇場の共同楽長となり、指揮者としてデビューし、この田舎町の小さな歌劇場で、演奏水準の維持発展に尽力しします。

その後、1937年ベルリン国立歌劇場で一躍名声を高め、早くも大指揮者フルトベングラーの若きライバルと目されるほどの脚光を浴びました。

第二次大戦後の一時期は指揮活動を中断していましたが、1947年ウィーン・フィルを振って楽壇に復帰、1955年には、フルトベングラー亡き後のベルリン・フィル首席指揮者・芸術監督に就任、翌56年、その終身芸術監督になりました。これに続き、西欧の音楽界の枢要ポストを一手に収めたことから、「帝王カラヤン」と呼ばれるようになります。とくにその手腕はベルリン・フィルで発揮され、同オーケストラを史上最高のオーケストラに育てあげています。

また若い才能ある音楽家の育成にも力を注ぎ、小沢征爾氏をはじめ、指揮のアバド、メータ、バイオリンのムター、ソプラノのレオンタイン・プライスやベーレンスら、多くの指揮者、歌手、演奏家を一流への道に導きました。1969年には「ヘルベルト・フォン・カラヤン財団」を設立、若い指揮者発掘のためにカラヤン・コンクールを新設しています。

日本には、1954年N響に客演したのが初来日で、その後は、1959年のウィーン・フィルとの一回を除けば、すべてベルリン・フィルと8回来日しています。けれども、1988年4月の11回目の来日が最後となってしまいました。

彼は、1989春の叙勲で、勲二等旭日重光章を受章しています。このほかオーストリア文化科学勲章、ドイツ大功労十字勲章、イタリア大将校栄誉勲章、パリ朱勲章などを受章、またオックスフォード大、ザルツブルク大、早稲田大から名誉博士号を贈られ、ベルリン、ウィーン、ザルツブルク各市の名誉市民でもありました。
カラヤンは1934年頃、その明確な動機は判りませんがナチス党員になっています。1939年にはナチスのゲッベルスの推挙で「第三帝国国家指揮者」になり、ドイツ第三帝国において、最高の指揮者の地位を手に入れました。しかし、政治的なミスを犯したらしく(フルトヴェングラーがカラヤンを「政治的に」抑え込もうとしたという話もある)徐々にベルリンでの指揮の機会は減っていきます。そして、1945年に敗戦を迎えましたが、今度は「ナチ協力者」として拘束され、実質的に活動再開を果たすのは1947年からとなります。
EMIというイギリスのレコード会社に、ウォルター・レッグという敏腕プロデューサーが居ました。カラヤンが活動禁止中に既に知り合っていた間柄でしたが。レッグはレコーディング用に組織された「フィルハーモニア管弦楽団」の中心指揮者としてカラヤンを迎えます。この頃レコード技術は日進月歩で進んでおり、まさにここにおいて「新進気鋭の指揮者」と「新進気鋭の技術」がマッチングしたわけである。
新しい技術で録音されたレコードが売れ、カラヤンの名声は世界的となります。
そして、近年ではソニーのCDとカラヤンは密接に結びつき、さらに名声を高めていきました。
彼の音楽に対しては好みがありますが、彼のセールスマンとしての功績は大きく、彼の存在なくしてCDデジタル化はありえなかったといわれていますし、現在、楽器がプロの名前のモデルで親しまれていますが、最初に発案者は彼だといわれています。彼は、ベルリン・フィルの団員に向かって「君達の名前を使って楽器を売れば、必ず売れるよ」と言い、みんなをびっくりさせたといわれています。
音というものは合っていてもよいし、合っていなくてもおもしろい。

4月


5日
慈円(じえん)

(1155〜1225)

おほけなく うき世の民に おほふかな わがたつ杣に  墨染の袖

鎌倉時代の天台宗の僧、歌人。

関白藤原忠通の子に生まれました。2歳で母を、10歳で父を失っています。13歳のとき比叡山延暦寺の僧となり天台僧としての修行に専心していました。

彼は、摂関家の子息として立身は約束された身でしたが、比叡山の無動寺で千日入堂を果すなど、修行を怠ることはありませんでした。しかし、彼の思いとは違って、当時紛争闘乱の場と化していた延暦寺に反発し、一度は延暦寺を離れようとしましたが、兄の兼実に説得されて思いとどまっています。

1186年、平氏が滅亡し、源氏の世となると、源頼朝の支持のもと、兄である兼実が摂政につき、彼も、平等院や法成寺などの寺の管理を委ねられ、宮中に召されて、修法をおこなうようになりました。また、歌壇での活躍も目立ちはじめ、歌人として多くの歌会・歌合に参加するようになります。

その後、1192年に天台座主(延暦寺最高の僧)となり、4年後に吉水にこもり吉水の僧正と呼ばれました。その後3度天台座主となり、大僧正として仏教界に重きをなしました。

また、わが国の三大史論書といわれている「愚管抄」をあらわして道理が歴史的な世界を動かすことを説きました。また、後鳥羽院政期を代表する歌人として重んじられ、「新古今集」には92首がはいり、勅撰集には225首が入っています。


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