4月


4日
池田光政(1609〜1682)江戸時代初期の岡山藩主

姫路藩主池田利隆の嫡子として生まれましたが、利隆の死後、転封させられ鳥取藩主となりますが、その後、天樹院(千姫)の娘の、勝子と結婚し、1632年には岡山藩主となりました。

武将としてきこえた池田輝政(てるまさ)の孫にあたり、祖母は徳川家康の娘の督姫(とくひめ)になります。新太郎といい、左近衛権少将(さこんごんのしょうしょう)の位についたので、新太郎少将と呼ばれました。

学問を好み、近江聖人の中江藤樹を師として学んでいます。あるとき家臣たちと一緒に「孝教」という中国の本を読んでいて、「争臣」の章までくると、光政は「大事なのはここである。君臣の隔ては心は一つでなければならぬ。私にまちがいがあれば遠慮なくいさめるのがお前達のつとめである。お前達も人の忠告に耳を傾けるように」と言ったといわれています。

又、学者の熊沢蕃山を招き、1641年には、上道郡花畠に学舎をつくり、藩の師弟の学問、武技練習場としました。又、蕃山の影響で陽明学に関心を持ち、藩政にも参加させています。しかし、陽明学を信仰したことにより幕府側から謀反の疑いをかけられ、光政は偽装をし、蕃山は何度も身を隠していなければなりませんでした。

1654年備前に大洪水が起こると、光政は、蕃山の補佐を得て、飢民の救済に万全を期しています。これをきっかけにして地方知行制を改め、藩主権力を強化するなどの改革をし、名君と呼ばれるようになりました。

その後、1670年に閑谷(しずたに)学校を設け、岡山藩では学問がたいへん栄えました。光正自身の学問も儒学、神道、仏教の各方面にわたり、著書もお経の解読から兵書にまでおよんでいます。
備前国(岡山県)岡山藩主池田光政に仕えた熊沢蕃山(1619〜91)は師を求め、岡山を出て江戸へ向かった。寛永19年(1642)、蕃山23歳の年である。途中の近江国まできて、ある宿に泊まった夜に、彼は隣の部屋で話しあっている2人の武士の、次のような話を聞いた。
 武士の1人は、かつて藩主から託された数百両の金を持って、江戸を出て故国へと向かった。途中近江を旅行中に、彼はうかつにも、その日の午後雇った馬の鞍に金入れを結びつけた。旅籠に着いた彼は、そのことを忘れて、馬子とともに馬を返してしまった。やがてそれに気づいたけれども、万事休すであった。切腹を覚悟した彼は、藩主や家人あての遺書をしたためた。
 遺書を書き終えて複雑な思いにふけっている真夜中に、だれかが旅籠の表戸を激しくたたいた。部屋へあらわれたのは、午後に乗った馬の馬子であった。しかも武士が忘れてきた金入れを手にしていた。
 30キロもの道を厭わず、疲れた足で届けにきてくれたのである。涙を流して喜んだ武士は15両の礼金をさし出した。「あなた様の大切なお金をあなた様が受け取るのに、何で礼がいりましょう」と、馬子は受け取らない。妥協の末に受け取ったのは、わずか200文であった。
 立ち去ろうとする馬子に、武士はたずねた。「そなたがどうしてこのような正直な人間になったのか聞かしておくれ」。馬子は答えた。「私の村においでになる中江藤樹先生が、親には孝行をし、自分の仕事を大事にし、うそをついたり、人の物をとってはいけないと、いつも教えてくださっているのです」。
 隣の部屋でこの話を聞いて感心した蕃山は、江戸遊学を中止し、翌朝さっそく小川村の藤樹のところへ行き、入門を願った。藤樹は「私はこの村の者しか教えておりませんので」と言って、丁重に断った。蕃山の熱意はおさまらず、ついに彼は藤樹の家の門のかたわらに上衣を敷き、大小をかたわらに置き、手を膝にして、その上に座った。ねばり戦術をとったのである。時は夏、おしよせる蚊に耐えながら、彼は3日3晩がんばったけれども、藤樹の許しは出なかった。見るに見かねた藤樹の母がとりなしに入った。藤樹にとって、母はその教えに従うべき人であった。こうして蕃山は入門を許された。
 明治期を代表する教育者のひとり、内村鑑三は英文で著した『代表的日本人』の中で、以上のエピソードを世界に紹介している。
正保2年(1645)に備前へ戻った蕃山は、藩主の池田光政が全国に先がけてつくった、藩士の教育機関である「花畠教場」を根拠地として活躍した。教育の基本は、藤樹に教わった陽明学の原理「知行合一」であった。藤樹の教えを尊んだ藩主光政は、藤樹の死後、彼の3人の遺児を召し抱えている。
 慶安元年(1648)、藤樹は肺を患って亡くなった。臨終の際に彼は弟子たちを集め、正座して「私はいま、この世を去る。生前私が説いたことが、この世から消え去らないようにしてほしい」と頼んだ。「近江聖人」が亡くなったことを悼み、近隣はこぞって喪に服した。諸侯は名代をおくって敬意を表した。彼の住まいは村人の善意によってたえず修繕されて、現在にいたっている。彼の名をつけた神社が建立され、命日には藤樹祭がいとなまれている。
 藤樹は母によく仕え、妻や子を愛した。謙虚な人でいばることなく、それゆえに多くの人が彼を慕った。実行を伴わない議論を嫌う彼は、身近なところから実行を始めた。自分の住む小川村からである。儒教で言う「修身・斉家・治国・平天下」を実行したのである。備前国岡山藩主池田光政に仕える熊沢蕃山の入門を、彼が頑強に拒んだ理由がここにある。
中江藤樹(なかえとうじゅ)1608〜1648
江戸初期の儒者。近江国(滋賀県)の人。名は原、字は惟命(これなが)。通称与右衛門。伊予国(愛媛県)大洲藩に仕えたが、のち帰郷して村民を教化した。王陽明の知行合一説に傾倒し、わが国陽明学の首唱者となる。世に近江聖人と称せられ、門下から淵岡山、熊沢蕃山らが出た。著「翁問答」「鑑草」など
陽明学
中国で明の時代に王陽明が宋の陸象山の説を継承して唱えた学説。人は生来備えている良知(是非・善悪・正邪の判断力)を養って、知識と実践とを一体化すべきだとするもの。わが国では、江戸時代、中江藤樹・熊沢蕃山らが支持した。王学。

4月


4日
山本五十六(やまもと いそろく)

(1884〜1943)

海軍軍人

新潟県長岡市にて、長岡藩士高野貞吉の6男として生れました。高野家は儒学者の家系で、そのせいか彼は、幼い時から聡明で、中学の頃からベンジャミン・フランクリンを尊敬して勉強をしていたそうです。

明治34年江田島の海軍兵学校に入学しました。卒業後の明治38年、日露戦争における日本海海戦において、装甲巡洋艦日進艦上で負傷し、左下腿大火傷し、左手指2本を失っています。

大正5年、旧長岡藩家老山本家の養子となり、山本姓となり家督を相続しました。その後、米国駐在武官に任命され、ハーバード大学に留学しています。 また、ロンドン軍縮会議日本全権随員となり活躍。帰国後は、海軍航空本部技術部長となり、第1航空戦隊司令官、海軍航空本部長となって、海軍航空軍政に手腕を発揮。石油や航空に早くから注目し、特に航空の重要性を力説しその充実に力を注ぎました。

彼は、日独伊三国同盟に断固反対し、太平洋戦争も回避を主張しましたが、戦争はさけられず、結局、彼が、連合艦隊司令長官となり、真珠湾奇襲攻撃などの、作戦指揮にあたりました。その後、ミッドウェー海戦で敗れ、前線の慰問と士気高揚のため部隊を見舞おうとして昭和18年4月18日、ラバウルを飛び立ちましたが、暗号を解読され、ブーゲンビル上空で待ち伏せしていた米軍機に撃墜され、戦死しました。 59歳でした。
彼は、対戦前勝算を尋ねられた時「やれと言われれば、初め半年や一年は随分暴れて御覧に入れますが、二年、三年となれば全く確信は持てません。三国同盟が出来たのは致し方がないが、かくなった上は日米戦争を回避するよう極力御努力願ひたい。」と答え戦争回避を訴えたのですが、結局は日米開戦は避けられませんでした。ただ、この言葉が逆に1年ならば勝てると言う逆の意味に取られ、戦争に踏み切らせたという人もいます。
彼は、国際信義に欠ける手違いの起きぬよう、真珠湾への奇襲攻撃前に何度も「だまし討ちにならぬよう、奇襲前に到着するであろうな」と確認をしていたのですが、結局はワシントンの日本大使館のミスにより、最後通牒は奇襲後に届くことになってしまいます。その結果、アメリカに、卑劣な騙し討ちという口実をあたえてしまったのです。


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