3月


31日
フランツ・ヨーゼフ・ハイドン (Franz Joseph Haydn) 

(1732〜1809) オーストリア 作曲家。

ウィーン南東のローラウ村でまずしい家庭に生まれました。幼くして叔父に引き取られ、従兄から音楽を学んでいます。8歳のときウィーンの聖シュテファン大聖堂の少年聖歌隊に入り、音楽教育をうけました。変声期をむかえて17歳で聖歌隊を解雇され、以後の約10年間は定職のないフリーの音楽家として苦労しています。この間、教本によって対位法を独学で学びました。イタリア人の声楽教師・作曲家ニコラ・ポルポラの家に下働きとしてすみこみ、指導をうけました。1755年、フュールンベルク男爵家に短期間かかえられています。
初期の弦楽四重奏曲は、男爵のために作曲したといわれています。モルツィン伯爵家の音楽監督に採用され、いくらか安定した職をえました。マリア・アンナ・ケラーと結婚するが、子供にめぐまれず、幸せな家庭ではありませんでした。

1761年、オーストリア東端のアイゼンシュタットに居城をもつハンガリー貴族パウル・アントン・エステルハージ侯爵の副楽長に採用され、楽長に昇格。以後彼は、エステルハージ家の当主3代につかえることになります。1762年、死去した兄パウル・アントンの跡をついで侯爵家の当主となったニコラウス・ヨーゼは、洗練された趣味をもつ音楽愛好家でした。

ノイジードル湖をはさんでアイゼンシュタットの対岸に広大な夏の離宮エステルハーザを建設し、ここに音楽の殿堂をつくる。楽長の彼はニコラウス候のために、交響曲、オペラ、マリオネット・オペラ、ミサ曲、室内楽曲、ダンス音楽など、大量の楽曲を書かなければなりませんでした。それにくわえて、他人の作品をふくむ音楽の稽古と本番での指揮、歌手の指導、楽器と楽譜の管理が課せられ、必要とあればオルガン、ビオラ、バイオリンを演奏し、配下の楽師たちのいさかいの調停をすることも任務でした。激務とウィーンから遠いエステルハーザ宮に隔離された状態にしばしば愚痴をこぼしましたが、18世紀の音楽家としてはめぐまれた境遇にありました。1779年にむすばれた契約書では、自作品を楽譜出版業者に売り、代金をうけとる自由をみとめられていたのです。

その結果、彼の作品はエステルハーザ宮の客にとどまらず、多くの人々の耳にとどくことになり、彼の名声はヨーロッパじゅうにひろがったのです。1790年、ニコラウス侯が没し、その子アントン侯は邸内の音楽組織を大幅に縮小した。ハイドンは楽長の称号をあたえられながらも、侯爵家からはなれ、ひろい世界を旅行する自由を獲得したのです。

ドイツ出身のイギリス人興行師でバイオリン奏者でもあったヨハン・ペーター・ザロモンは、新作コンサートを開催するため、さっそくハイドンをロンドンへまねきました。こうして2度にわたりイギリスをおとずれ、第94番「驚愕」、第100番「軍隊」、第101番「時計」、第103番「太鼓連打」、第104番「ロンドン」など、後期の交響曲12曲を演奏して大成功をおさめました。これらは「ザロモン・セット」もしくは「ザロモン交響曲」とよばれて、今日でも人気が高い。

晩年のハイドンはミサ曲の創作にむかい、またオラトリオの傑作「天地創造」と「四季」をウィーンで作曲しました。ナポレオン軍のオーストリア侵攻に対抗して書いた「皇帝賛歌(神よ、皇帝フランツをまもれ)」は、のちにオーストリア国歌そして現在のドイツ国歌となります。1809年5月31日、ナポレオン軍がウィーンに進入する直前に、有名かつ富裕な音楽家としてウィーン郊外で死去します。76歳でした。

生涯に104曲もの交響曲を残し「交響曲の父」又、古典音楽の完成に大きな貢献をし、古典派音楽の父とも呼ばれています。温かい人柄で「パパ」と慕われていました。

3月


31日
朝永振一郎(ともなが しんいちろう)

1906〜1979

昭和初期の物理学者

哲学者三十郎の長男で東京に生まれました。昭和四年に京都大学理学部を卒業を卒業、湯川秀樹とともに同大学助手となりました。昭和7年には理化学研究所に移って仁科芳雄の下で研究。その後、ドイツに留学してハイゼンベルグについて学びました。昭和16年、東京文理科大学(現東京教育大学)の教授となりました。

それまでの考え方では、相対性理論との関係が必ずしも明らかではありませんでしたが、彼は、空間の各点はそれぞれ固有の時間をもつと考える「超多時間理論」を昭和18年に完成し、解決しました。

さらに昭和21年に、これに「くりこみ」の操作を導入して量子力学を完全な形に発展させました。これは、量子電気力学は、物理量を計算すると、すべて無限大になるという自己矛盾を含んでいたのですが、「超多時間理論」によって、無限大を電子の質量や電荷にくりこんでしまえばよいことがわかりました。この結果、すべての物理量は有限となり、理論と実験とが一致するようになったのです。

これらの功績により昭和27年に文化勲章を受章。昭和31年には東京文理科大学の学長となり、昭和38年には日本学術会議議長となりました。そして、昭和40年にノーベル物理学賞を受賞しています。晩年は平和運動や国際交流など幅広い活動をおこない、世界平和アピール7人委員会にも参加しました。

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