3月


30日
ビンセント・バン・ゴッホ(Vincent van Gogh) (1853〜1890)オランダの画家。

父は、オランダ改革派の牧師で、6人兄弟の長男として、オランダの南ブラバント州ズンデルトで生まれました。その4年後の1857年に、フィンセントと仲が良かった弟のテオドルス(テオ)が生まれています。

1861年に村の学校に通い始め、その後2校の寄宿学校へ通いました。彼は語学力に優れ、フランス語、英語、ドイツ語を勉強しましたが、15歳で退学し、故郷ズンデルトへ戻り、その後は正式な学校教育は受けませんでした。

パリに本拠を置く美術商グーピル商会に雇われ、叔父によって創立された同画廊デン・ハーグ支店で働き始めました。1872年8月に弟テオに書簡を書き始め、彼等の文通は18年間に及びました。3年後、弟テオも同じくグーピル商会にやとわれます。同年、ロンドン支店に転勤し、毎日絵画や素描作品に接するようになり、ミレーやブルトンの農民画などの写実的絵画を見て興味をもつと同時に、自分の仕事に興味を失い、聖書に心を傾けるようになります。

1876年の3月末にグーピル商会から解雇され、人々を助けたいという思いが高じて、聖職者になることを決意します。

ロンドン郊外のアイルワースで教師と副説教師の仕事につきます。福音伝導に興味を示し、貧しい人々に伝導することに夢中になり、アムステルダムに移り神学校への入学を試みましたが、入学を拒否され、ブリュッセル近郊の伝道師学校へ短期間通い、南ベルギーの炭坑地帯ボリナージュへ行き、宣教師として働きました。

探鉱夫たちに囲まれ貧しく暮らし、床で寝起きし、所有物を恵まれない人へ与えました。熱心に伝導活動を続けましたが、彼の極端な熱意は教会から嫌悪され追放されました。社会の役に立とうと苦悶しながら、芸術家となり同時に神の僕になれないかと思案し、独学で絵画を学びます。しかし、生活の糧を得られず、弟テオが、仕送りをすることになり、彼の生涯を通してその支援が続けられました。

その後農民画家となることを決意し、多数の秀作を描きますが、パリでは売れず、テオと意見が合わず軋轢が生じます。1885年父が脳溢血で亡くなり、その後しばらくして、初期の代表作である「ジャガイモを食べる人々」を完成します。

1886年、パリのモダンな画家たちに出会い影響され、スーラ等の新印象派(点描派)の色彩分割技法を学びます。又、モデルを雇う余裕がなく20点以上の自画像を創作、パリでの最後の「画家の肖像画」は彼の個性と独自の画風を鮮やかに表現しています。又、明るく強い色彩の練習も重ねています。

又、日本版画(浮世絵)を購入し詳しく研究しました。浮世絵の展覧会をパリのカフェで開催し、何枚かの浮世絵を油彩で模写しました。形式化した輪郭線と表現的な彩色方法を浮世絵から学んだのです。

1888年に南仏プロヴァンスへ向けて旅立ち、引き続き芸術家の集団生活を夢見、アルルに「黄色い家」のスタジオを借り、ゴーガンに参加を呼びかけました。プロヴァンス地方の明るい色彩と強い光に感化されて、独自の力強い技法で次から次へと制作していきました。その年の10月、ゴーガンはついにやって来ました。9週間彼とゴーガンは共に制作し芸術に関して議論をしますが、ついに、二人の間に亀裂が生じ、12月、彼は精神に異常をきたし、ゴーガンをかみそりで脅し、しまいには自分の左耳の一部を切り落としてしまいました。彼はアルルの病院へ収容され1889年の1月まで入院しました。その頃テオはヨハナと言う女性と結婚しています。

その後、サン・レミの精神病院へ入院。突発する発作と戦いながらサン・レミ時代には150点もの絵画を制作しますが、ある強烈な発作が彼を襲い、彼は絵の具を飲み込んで自殺をはかり、絵の具を取り上げられ、しばらくは素描しか描けませんでした。しかし、ベルギーの前衛グループ「二十人会展」では彼の作品6点が展示され「多くの芸術家があなたの作品が最も展覧会で衝撃的だったと考えている。」とゴーガンは書いています。

1890年、ホメオパシー(類似療法)内科医で、アマチュア画家でもあったガシェ博士の治療を受けるようになり、「病気のことは忘れ制作に集中するよう」助言され、短期間の平安な日々を過ごしています。

しかし、テオが独立することを考えだし、「資金援助を削減しなければならない」というテオの告白に影響を受け、緊張感を高め、小麦畑を歩きながら拳銃で自分の腹を撃ちました。よろめきながら貸部屋へ戻り2日後の7月29日にテオに見守られながら息を引き取ります。棺は黄色い花で囲われていたと言われています。

後を追うように、半年後テオも亡くなります。テオの未亡人ヨハナは子供とテオの遺産である、彼の作品群とともに故国オランダへ戻りました。遺産は20世紀の芸術家たちに莫大な影響を与えました。

その後、息子ウィレム・ファン・ゴッホ(1890〜1978)によって相続され、オランダ政府の提唱によりファン・ゴッホ美術館建設計画が持ち上がり、1962年ゴッホ財団に移管しています。

3月


30日
フランシスコ・ゴヤ

(1746〜1827)

スペインの画家、版画家

サラゴサ近郊の貧しい農家に生まれました。画家を志して首都マドリードに出て、美術学校で勉強し、その後ローマに行き、帰国して郷里のサラゴサで近くの寺院の壁画を描いていました。

再びマドリードに行き、宮廷画家 F.バイユーのもとで修業。 1773年にバイユーの妹と結婚してマドリードに定住するようになります。王立のコブラン織工場でその下絵を書き、認められて王宮に入るようになり、カルロス4世の宮廷画家となりました。ベラスケスやレンブラントの影響を受けて色彩のゆたかな情熱的な作品を描き、スペインのロマン派の代表的な画家となりました。

彼の代表作としては「マハ(着衣・裸)」や「カルロス4世とその家族」などの宮廷画家時代の華やかで明るい作品もありますが、聴力を失ってから、彼は、聾者の館と呼ばれる家にこもり、「黒い絵」とよばれるおぞましく、恐怖に満ちた内面的な作品群を創出しています。又、版画も手がけ、「気まぐれ」「闘牛士」「妄」「戦争の惨禍」という代表的な四大版画集を生み出しています。

彼は、ナポレオンの兄ジョセフが新国王となって後も宮廷画家として創作を続け、フェルジナンド7世の時病気のためフランスへ療養に行きボルドーで亡くなりました。

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