3月


25日
樋口一葉(1872〜1896)小説家 (本名 夏子)

兄が2人、姉が1人の次女として、東京に生まれました。両親は幕末に山梨より上京、お金で武士である同心の地位を得ましたが、明治維新となり、借金だけが残ってしまいました。一葉が生まれたころは、父は東京の官吏でしたが、とても貧しく。彼女は、小学校に通っただけで、小学4年をおえると「女に学問はいらない」と母から言われて小学校を中退してしまいます。

そして、翌年からは生計を立てるため、知り合いの家で裁縫を習いましたが目が悪く苦労しています。

しかし、彼女は中島歌子の歌塾萩の舎に入門し和歌を習い始めます。同門の上流家庭の子女たちに比べて一葉は貧しかったのですが、歌は秀でていました。17歳の時、事業に失敗した父が失意のうちに死に、一家を支える責任が相続人の一葉の肩にかかり、母と妹と共に貧しい生活をしながら文学を志しました。(長兄は亡くなり、次兄は分籍、姉は結婚していた。)

小説で生計を立てようと、二四年「東京朝日新聞」の小説記者半井桃水に弟子入りし、「闇桜」を発表しましたが、桃水との仲が醜聞化して伝えられたため、桃水に絶交を申し出ています。

その後、「都の花」に「うもれ木」(二五年)を発表し、これが好評を得て、「文学界」同人を知って同誌の寄稿家となり、彼らから新しい文学の知識を得るようにもなりました。

しかし、暮らしは相変わらずの貧乏が続き、彼女は稿料で生活を支えることを断念し、下谷竜泉寺町(通称大音寺前)へ転居して荒物・駄菓子・おもちゃ等の店を次々と開きましたが全て失敗し、二七年本郷区丸山福山町の銘酒屋街に移っています。

ここで、「大つごもり」「にごりえ」「わかれ道」「たけくらべ」等を次々に発表(森鴎外からも絶賛される)、文壇から高い評価を得たが、過労から発病、二九年十一月に没しました。24歳の若さでした。

貧困の体験、社会的正義、下層の人々への共感が作品の芯をなしています。雅俗折衷(優雅なものと世間的なことばをたくみにおりまぜた)の独特の女性的な美文で、日常の生活の中で当時の女性の姿と心理をいきいきと描き出しています。また、日記も当時の世相や文壇の動きをとらえたもので文学的価値も高く、当時、才女として「今紫」「今清少」とよばれました。
彼女の両親は、駆け落ち同然に江戸にでて懸命に働いて、苦労の末、借金までして南町奉行配下八丁堀同心浅井竹蔵の株を買い幕臣となります。江戸時代の身分制はそれほど固定したものではなく、百姓であってもお金さえ出せば武士階級になれたのです。しかし、すぐに明治維新がおこり江戸幕府そのものが消滅してしまいます。そのため、武士であることに何の意味もなくなり、借金だけがのこり、貧乏になっていったのです。
一葉は、まだ家が豊かだった幼い頃、台地の上、加賀藩邸の赤門前に住んでいたことがある。隣が法真寺で、その法真寺では、今も毎年十一月に一葉忌が営まれ、その頃になると、文京区の掲示板には髪を結った細面の一葉の顔を載せたポスターが貼り出されます。
2004.8.29 無断引用の箇所があるということで、出所のはっきりとしないエピソードは削除しました。紹介してくださった山本様、申し訳ありません。

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