3月


21日
ヨハン・セバスチャン・バッハ(Johann Sebastian Bach)

(1685〜1750)ドイツ 作曲家

 北ドイツのアイゼナッハで、楽師の父ヨハン・アンブロジウス・バッハの8人の子どもの末っ子として生まれたと言われています。父や兄から音楽を学び、音楽に優れた才能を示しましたが、9歳の時に母エリザベートが、翌年には父が亡くなり、8人の兄弟は親戚にばらばらにあずけられ、バッハは14歳年上の長兄に引き取られています。

 その後、教会のオルガン奏者となり、1717年ケーテンの宮廷楽長となりました。ここで室内楽の名曲「平均率クラビーア曲集」「ブランデンブルグ協奏曲」などを作曲しています。1923年ライプチヒのトーマス教会合唱長となり「聖ヨハネ受難曲」「聖マタイ受難曲」などの宗教的な名曲や「イタリア協奏曲」などを作りました。この時期彼は、精力的に仕事をし、年に60曲ものミサ曲の作曲や、150回もの指揮を精力的にこなしています。

 彼は、深い信仰心から多くの宗教音楽を作りましたが、複雑な音の使い方に優れ、対位法を発展させて古典音楽の基礎を作りあげました。

 晩年は、若いころの無理がたたって視力を失い、1750年の3月に、眼の手術を2度も受けましたが視力は回復せず、その手術で体力を消耗し、その年の7月に65歳で亡くなりました。

 彼は、ヘンデルと共にバロック音楽の最後を飾る音楽史上最大の音楽家の1人であり、多声音楽の完成者と言われています。又、「音楽の父」と言われ、ブラームス、ベートーベンとともに、「ドイツ三B」といわれています。

 彼は、2度結婚し20人もの子どもをもうけました。その中でも、末っ子のヨハン・クリスチャン・バッハはロンドンやパリで活躍し、神童モーツァルトに大きな影響をあたえています。又、バッハの家系は数十人の音楽家を出して、遺伝学上でも有名です。
クラビーア
 ドイツ語でハープシコード、クラビコードなど、ピアノの原形楽器の総称。
バッハ家は、代々優れた音楽家を出した家系で、200年の間に53人もの音楽家が出ています。
バッハは今日の音楽の基礎を築き、無限の可能性を示したことで音楽の父と呼ばれました。ベートーベンは「バッハ(ドイツ語で”小川”の意味)は、メール(海)よりも大きい」と、語ったといわれています。
バッハが生まれたドイツのチューリンゲン地方のアイゼナッハという町では、バッハ一族といえば音楽家、逆に音楽家はほとんどバッハの血縁者でした。バッハには兄が5人おり、若くして亡くなった2人を除く3人は全て音楽家になりました。またバッハ自身は2度の結婚で20人の子供をもうけ、その中の4人は今もその作品が聴ける作曲家です。
バッハは1000を超える作品を残しましたが、一般受けのするオペラや恋愛の歌は生涯に1曲も書いていません。そのためか生存中にはあまり人気が出ず、当時のライプチッヒの新聞による作曲家の人気投票では、バッハは7位だったそうです。
バッハといえば、カツラですが。この時代の正装は皆カツラをつけています。バッハは大変頑固者で自分の信念を曲げない人で、生徒に、カツラを投げつけて怒ったという話もあるそうです。
1909年のこの日、神戸〜大阪間で初のマラソンが行われました。

3月


21日
モデスト・ムソルグスキー

1839〜1881

ロシアの作曲家

ロシア西方のプスコフ県カレボ村で、大地主の四男として生れました。幼いとき母からピアノの手ほどきをうけていました。その後、軍人を志して13歳でサンクトペテルブルクの陸軍士官候補生となり軍人になりましたが、18歳のとき作曲家ダルゴムイシスキーと知りあい、彼を通じてロシア国民楽派のサークルにくわわり、ロシアの民謡や民族音楽のリズムを取り入れた新しい芸術音楽を作ろうと、努力を重ねるようになります。そして、彼は音楽に専念するために1858年に退役しています。

そして、彼が作曲家としてようやく認められるようになった1861年にロシアで農奴解放が実施され、ムソルグスキー家も大打撃を受け、彼は、母とベテルブルグに住み、生計を立てるために郵政省などの下級官吏となっています。

その後も、働きながらも音楽の研究に熱中していましたが、家が破産してしまい、一時アルコール中毒にかかり、神経衰弱になってしまいますが、やがて、彼の代表作とも言える「ボリス・ゴドノフ」を1870年に完成しました。

当時、この曲は、青年達には好評でしたが、批評家には認められなかったそうです1873年には、ピアノ曲集「展覧会の絵」を完成。1879年には歌手レオノーワ夫人の伴奏者としてウクライナ、クリミアへ演奏旅行に出かけ、彼女のために有名な歌曲「のみの歌」を書いています。しかし、翌年アルコール中毒が悪化して精神錯乱を起こし、1881年3月28日陸軍病院で亡くなりました。42歳でした。
「展覧会の絵」
この曲は、彼の親友でも有り、彼の芸術のよき理解者でも会ったハルトマン(建築家、画家)が、39歳という若さで亡くなり、彼の遣作展覧会が開かれたとき、その展覧会の印象をピアノ用の組曲にしたのがこの展覧会の絵だということです。

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