3月


19日
デイビッド・リビングストン(1813〜1873)イギリス 宣教師 探検家 地理学者 博物学者

スコットランドの貧しい家庭に生まれました。紡績工場で働きながら独学でグラスゴー大学へ進み、医学、神学を学びました。その後、医療伝道師として、1841年から、当時暗黒大陸と言われていたアフリカ奥地へ二度も探検し、ザンベジ川やビクトリア湖を発見すると共に、数百人の黒人奴隷を解放して愛の手を差し伸べました。

1866年、ナイル川の水源地を探るために三度目の探検に出かけた時、5年間も消息を断ち気遣われましたが、1871年ウジジでイギリスの探検家の探検家スタンリーによって発見されました。熱病にかかり、スタンリーと別れてのち北ローデシアのチタンボで赤痢のため亡くなりました。

遺体は八ヶ月もかかって忠実な黒人の手により太平洋岸に運ばれ、更にロンドンのウェストミンスター寺院に葬られています。

彼は他人をとがめることのない謙虚な人物で、アフリカに福音を伝え、ヨーロッパに奴隷貿易の悪を指摘し、探検家として未知世界アフリカの地理の知識を伝えました。
リヴィングストンの発見
1866年1月、三度アフリカの地を踏んだリヴィングストンは、ルアラバ川がナイルとつながっていると当たりをつけ、詳しい調査を開始しました。しかし、長い探検生活からか体調を崩し、タンガニーカ湖のそばのウジジという村で静養を余儀なくされてしまいました。
その間、ヨーロッパではリヴィングストンは死んだという噂が流れていました。すでに3年以上も連絡が途絶えている英雄をこのままにはしておけないということで、大捜索が開始されすが。その中でも「ニューヨークヘラルド」紙は、熱心に押し進め特派員スタンリーが、1871年11月10日、ウジジで劇的な出会いを果たしました。
どうやら連絡が途絶えたのは、当時、アラブ商人が活発に活動していたのですが、リヴィングストンは奴隷貿易反対の立場を一貫して取っていたため、彼らに嫌われ連絡を取ってくれなかったというのが主な原因であるといわれています。
リビングストンは、その著作の威力、人格の力、そしてその悲劇的な死によって「この世の悪弊」(奴隷売買)を根絶させる処置をイギリス政府に強く働きかけ、ついには、悪名高い奴隷売買のアラブのスルタンは奴隷の輸出禁止協定に署名し、ザンジバルの首都に於ける奴隷大市場は閉鎖されました。
又、シーレ河のほとりでひどく悲劇的な失敗をみた伝道所は、その後再建されて、ニアサランドとして知られるようになり、彼の死後一世紀足らずのうちに、彼が初めて入った、森や沼地や砂漠の広大な地域のあちこちらに、教会や大聖堂や、アフリカ人の牧師とその信徒たちが広まっていったのです。
リビングストンの伝記は、40数年前には、小学校の教科書で採用されていたそうです。

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