3月


16日
ジョージ・サイモン・オーム(1789〜1854)ドイツ 物理学者

 ドイツ中部のババリアのエルランゲンで、7人兄妹の長男として生まれました。 父は貧しい錠前師でしたが、独学で数学や物理学を勉強している優秀な人でした。10歳で母を失い、父に数学を教えられ、弟(マーティンは有名な数学者になる)とともに早くからその才能を発揮しました。

 エルランゲン大学を卒業して数学教師としてスタートを切り、1817年28歳の時にはケルンの高等学校の数学および物理学の教授となりました。このころから、物理学、特に電気理論に興味を持つようになります。貧弱な自作の実験装置を用いてカルバーニ電池による回路の実験的基礎をきずき、1827年38歳の時にその成果を発表しました。有名な「オームの法則」(電気抵抗は導線の長さに比例し、断面積に反比例する)はこの論文に含まれています。ところが、当時ドイツの学会では認められず、大学教授になる希望を断たれただけでなく、9年間勤めたケルンでの職も解かれてしまいました。

 その頃 のドイツではへーゲル哲学が全盛で、学問研究は高度に洗練されたエリートにのみ許された営みという考えが支配的でした。したがって、大学を中退した高校教師の研究など、研究としては全く認めらなかったので す。そののち6年間は一市民として不自由な生活を送りましたが1833年にバイエルンのルードビッヒー世に救われてニュルンベルクの工芸学校の物理学の教師として招かれ、教育と研究の活動に戻りました。

 8年後の1841年には、故国で認められなかった論文が、ロンドンの王立学会で認められ、その翌年には王立学会の外人会員に列せられました。このころ、欧米の物理学者たちがオームの業績をたたえるようになり、その名声は一段と高まりました。

 オームのもう一つの業績は、ニュルンベルクで行なった音響体についての複合音の研究ですが、これもヘルムホルツがその業績を讃えるまで一般には知られませんでした。

 1852年63歳になって、念願のミュンヘン大学正教授のポストにつくことができましたが、わずか2年で、急病のため65歳の生涯を終わりました。電気抵抗の単位に名前の「オーム」が採用されたのは、1881年に開かれたパリ国際電気学会で、オームの没後27年たっていました。

 著書に「数学論文集」等があります。
オームは、フランスの数学者ジャン・フーリエの書いた熱の流れに関する論文を読み、その中の「2点間を流れる熱の流れは、その2点間の温度差と熱伝導率に比例する。」という点に注目しました。この論文を読んだオームは当時ようやく人々の関心をひき始めた電流についてもこれと同じ法則がなりたつのではないかと考えたのです。しかし、実験を思い立ちましたが、オームには暇も金も実験をするための器具もありませんでした。しかし、熟練工の父親の血を受け継いで、彼は器用な腕をもっており、実験に必要な器具はすべて暇を見つけては自分で作り上げたのです。

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