3月


15日
ベーリング(1854〜1917)ドイツ 細菌学者 免疫学者

 ドイツの古都ハンスドルフに生まれました。経済的事情からベルリンのの陸軍医科専門学校を卒業後、数年軍務につきました。彼は詩人としての才能もあったそうです。軍医として勤務していた期間に、ヨードホルムに殺菌作用のあることを発見していますた。ベーリングの才能を陸軍医務局は認め、薬理学者ピングの下で勉強させた後、本人の希望でコッホの助手として働くようになりました。

 コッホの指導を受け血清による免疫を研究、北里柴三郎と協力し1890年、ジフテリア菌の培養液を濾過して細菌を除いた毒をふくむ濾過液(致死量以下)を動物に注射して、細菌の毒素を無毒にすることができる免疫血清を作り、血清療法の基礎を作りました。

 1892年この免疫血清は、初めてベルグマン医師の診療所にてジフテリアの子供の治療に試みられました。その後、ドイツのジフテリア死亡率は10分の1に減り、その偉大な効果に全世界が驚きました。

 ベーリングは、血清やワクチン製造に関する研究のために、ベーリング会社を設立し、血清とワクチンの販売から経済的に豊かになりました。広大な構地に多数の実験動物が飼育されていたそうです。1896年42才の時、18才の娘エルス・スピノラと結婚しまています。1901年には「ジフテリア治療血清の創始」の功績により第一回ノーベル賞を受賞しました。7人の子供の父として研究に専念していましたが、1917年3月に亡くなりました。
ベーリングが第一回ノーベル医学・生理学賞に選ばれたのは、その十一年前に留学中の柴三郎とともに発表した研究論文「動物におけるジフテリアならびに破傷風免疫の成立について」によるものでした。しかし、柴三郎はノーベル賞最終候補の十五人に選ばれるにとどまり、栄誉を逸しました。研究論文の骨子は柴三郎が手掛けた破傷風菌の動物実験データであったにもかかわらずです。
落選の理由はいくつかあるそうですが
1、ジフテリアと破傷風では、研究成果のアピール度で差があった
2、日本は医学分野で“発展途上国”とみられており、選考委員の中から「日本人学者に賞を与える必要はない」との声が出た
3、医学界の主流派が柴三郎を積極的に推薦しなかった
(当時、東大派の学者との確執は尾を引いており、免疫血清の創製に「柴三郎は関与していない」とする論文が出されたほどなのです。)

しかし、後年、ベーリングは柴三郎の“ノーベル賞”を認めています。「自分の成功は、柴三郎の先駆的研究のおかげである」と。
北里は当時、破傷風と同様にジフテリア毒素によって起こるジフテリアの毒素の定量法などを研究していました。同僚のベーリングと共同で、ウマやウシで作った破傷風毒素やジフテリア毒素に対する抗体を患者に投与して素晴らしい治療効果を挙げました。 この血清療法の基本的な研究は北里が中心になって遂行しています。
1825年のこの日、異国船打ち払い令が出されました。

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