3月


12日
江崎玲於奈(1925〜)物理学者

 大正14年大阪で生まれました。京都の旧制同志社中学、旧制の第3高等学校、東京帝国大学物理学科へと進みます。終戦前後に学生時代を過ごし、原子核物理という分野の研究を希望していましたが、進駐軍により原子爆弾に関係すると言うことで反対され断念しました。1947年大学を卒業、この年真空管に変わり20世紀最大の発明と言われる、半導体・トランジスタが、アメリカのショックレー博士により、発明されますが、その半導体の研究を企業の研究所にて始めます。
 トランジスタの材料であるゲルマニウムやシリコンの純度を上げる事に技術者が苦労していた時代で、彼は不純物を多く加える事で新しい現象が起こることに注目していました。
 神戸工業(現富士通明石工場)を経て、1956年東京通信工業(現ソニー)に入社、半導体研究室で1957年トンネルダイオード(エサキダイオード)を発明(量子力学のトンネル効果をエサキダイオードにより、固体中に検証)しました。
 しかし、当時は誰からも注目されませんでした。評価を受けるのは10年以上経ってからでした。1960年渡米し、IBMワトソン中央研究所特別研究員となり、1965年日本学士院賞、1973年ノーベル物理学賞、1974年文化勲章を受章。日本でノーベル物理学賞を受けた湯川秀樹、朝永振一郎、江崎の3人とも、関西育ちで三高 (旧制) 出身であることが話題となりました。
 また1969年の人工超格子の提唱は、固体物理学の新分野を開拓することに貢献し、世界における半導体研究者の約半数がこれに従事するといわれるほど、大きく発展することになりました。この功績により1998年、日本国際賞を受賞。このほか米国物理学会国際賞、米国IEEE協会最高栄誉賞など多数受賞しています。又、1988年には勲一等旭日大綬章を受章。
 日米両国の社会と文化についても積極的に発言し、国際間の理解の増進に貢献してきました。1992年に筑波大学長に就任してからは、筑波大学の改革・活性化のみならず、日本学術振興会、大学審議会等において活躍し、広く日本の大学及び科学研究の活性化に貢献しました。1999年6月以降、日本新事業支援機関協議会JANBO会長としてベンチャー創出につとめ、また2000年3月以降は首相の私的諮問機関である教育改革国民会議座長として教育問題に取り組んでおられます。
 主な著書に「創造力の育て方・鍛え方」、「個性と創造」、「個人人間の時代」、「創造の風土─ニューヨークから」等があります。
江崎のノーベル賞のかげに、忘れられた女性が一人います。エサキダイオードの特許公報を見ると、発明者として黒瀬 百合子の名前が連記されています。
黒瀬 百合子は、学習院大の物理を出て、江崎のアシスタントをしていました。アルバイトの鈴木と共にトンネル効果のデータ収集をしており、大いに貢献したということで、特許が連名になったようです。 しかし彼女が、共同発明者として脚光を浴びることは、全くありませんでした。
あまりにも、彼女に日が当たらないので、町の発明家達の集まりである発明学会は、見るにみかねて、1974年4月18日の発明の日に、トンネルダイオードの発明者の一人、黒瀬 百合子を表彰しました。 が、彼女自身は出席することはできませんでした。彼女は、それより少し前、4月14日に、ガンのためこの世を去っていたのです。
 ソニーがトランジスタラジオ用のトランジスタを増産している時期に、江崎は ソニーに転職してくる。当時、ソニー独自で開発したGeトランジスタにおいて、Geに不純物を加えて、PN接合をつくる時、製品不良が多発し、トランジスタ ラジオが生産できない危機に陥っていた。
 江崎は、入社早々この解明を要請された。 アルバイトで江崎の助手をしていた鈴木 隆が、いろいろ実験している時に、今までにない現象が出たので、江崎にデータを見せたところ、江崎はすぐにこれがトンネル効果であることを認識した。
  つまりたくさんの不純物をPN接合に添加(ドープ)すると、PN接合の順方向特性の中に、こぶ状の曲がりが現れ、負性抵抗を示す。これは、電子が、高いポテンシャルをある確率で自由に通り抜けるトンネル効果によるもので、量子力学で出てきた概念である。
 1956年国内外で、このトンネル効果(当時はまだ、エサキダイオードという呼称はなかった)について発表したが、日本では全く注目されなかった。トランジスタを発明したショックレーが絶賛したため、日本でも注目されるようになったという経緯がある。 1973年江崎はノーベル物理学賞を受賞した。この時江崎は、すでにアメリカに渡っていた。
 エサキダイオードそのものは、製品としてあまり使用されていないが、トンネル効果を目で見える形で示したことには意義がある。
 1960年に入って、江崎はアメリカのIBM社に転職する。IBMでは、トンネル分光学の確率、ビスマスの江崎効果、超格子の多重量子井戸デバイス等の研究で多くの成果を上げ、アメリカの物理学会で、絶賛された。
トンネルダイオードの特許の取り方、つまり、特許の網の構成については、失敗例として、語り草になっている。基本特許こそ、ソニーが特許権を取得したものの、その応用面については、ダイオードのスイッチング速度に注目した、外国勢によってことごとく取得されてしまった。
 ソニーは、この経験を生かして、次に発明された、トリニトロンやLEC等については、基本発明の後、応用研究,開発研究を重ねて、その結果を含めて、対外国出願を完全に済ませてから、発明の発表を行っている。
江崎玲於奈氏の言葉1

一科学者か歩んだ50年の道
ノーベル賞受賞者は、生まれながらの優れた才能の持ち主ばかりではない。私はそれほど才能がないにもかかわらずノーベル賞をもらえ、大変誇りに思っている。それは、自分というものを知っていたからだ。顔かたちが違うように、だれしも持っている才能は異なっている。皆さんも、自分が最も得意とすることで競争しないといけない。わが国の学校は、全員平等という立場で教育する。言われる通りに勉強して知識を身につけるよりも、まず自己発見を優先するべきだと申し上げたい。持って生まれた才能は努力して磨かないと真価を発揮できない。ただ単に才能プラス努力、という足し算ではなく、才能に見合った努力を掛け算することをやらないといけない。失敗もあるだろうが、頑張ってほしい。皆さんの真価は21世紀に問われる。その未来は、過去の延長線上にあるという面もあるが、最近はそうとばかりはいえなくなっている。むしろ「未来が現在を規定する」という時代になっている。未来を考えずには、将来の計画を立てられなくなっているのではないか。例えばオゾン層破壊などの問題は、今はそれほど深刻でなくても、地球環境上、徐々に大きな問題になってくる。未来への準備が大変重要だ。私が大学を卒業した50年前に、トランジスターが発明された。今世紀中盤以降で最大の発明といえ、これなしには情報化の時代は訪れなかった。また、私たちのライフスタイルにも大きな影響を与えた。私も最初、真空管を研究し、あとでトランジスターに変わった。安定した社会では将来は現在の延長線上にあると思いがちだが、現代のような変革の時代には、今までにない新しいものが生まれる。そういう時に、決定的な役割を演じるのが創造力だ。我々の知性は大きく分類すると2つあるように思う。ひとつはものごとを理解し、選択し、判断する能力で、これを分別力という。皆さんの生活に必要なものだ。それに対し、新しい考え方をするのが創造力。この2つには大変な違いがある。文明を発展させてきたのはまさに創造力で、これは未知への挑戦であり、非常に個性的なものだ。一方、分別力は既に知られたものを取り扱うので、没個性的なところがある。学校はどちらかというと分別力を教える所だ。創造力は、皆さん自身が勉学を通じて、つかみ取っていかなければならない。
江崎玲於奈氏の言葉2

 私が物理学を選んだ動機というのは、科学の考え方というものに共鳴したからといえるかもしれません。私の学生時代というのは今では考えられないですが、戦争中でございまして、破壊と死というものが身近に感じられました。そういう状況になりますと、人間というのは、基本的な知識を得たいという哲学に走るかもしれません。サイエンス、これは、非常に普遍的で画一的な知識、しかも物理というものはナチュラルフィロソフィー(Natural Philosophy)ですから一番のサイエンスの基本です。そういうことを勉強しようと思いました。
 研究というのは、自然科学とかサイエンスというものには、サイエンティストだけじゃないかも知れませんが、自然を愛する人たちに非常にアピールすることが二つある。ひとつは、宇宙ということです。コスモスとかユニバースとか。もうひとつは、生命ということです。宇宙というのは、宇宙の起源、あるいは物質の起源、生命の起源に対する興味は非常に大きいものがある。宇宙の基本的なからくりを研究するのが、現在、高エネルギー加速器研究機構だと思います。 サイエンスというものは一体どんなものかということについて、アインシュタインがこんなことを言っています。科学者の仕事ぶりを知るには、言っていることに耳を傾けても仕方がない。何をやっているかということを実際見なさい、というわけです。サイエンスには二つの面がある。一つの面は、非常にロゴス的で、客観的で、理性的で、冷徹で、厳密な論理的な面、教科書に書いてあるような面です。要は、仕上げられた結果で、学者としては講演会などで胸を張って発表するものです。もう一つの面、別の面は、新しい成果が生まれる、創造のプロセスです。サイエンスは創造である、というのは非常に重要なことです。創造のプロセスとは、主観的で、個性的で、イマジネーションが豊かで、パトス的な側面です。
 科学はもちろん、非常に鋭い、知性のもとで、研究を進めるわけですが、やはり、直感と、霊感をたよりに暗中模索、悪戦苦闘、試行錯誤を繰り返す、たまにやってくる幸運、チャンスがある、そういうものに恵まれて、闇の中に光彩を放つような解答を見いだす。こういう科学が新しく生まれる側面をみてほしいです。 この研究所、高エネルギー加速器研究機構をご覧になると、実際新しいものが創造されるプロセスが、いっぱいあります。生きてる科学というものを皆さんがご覧になるということは、若い人に大変重要ではないかと思います。

3月


12日
ニコライ・ワシリエヴィチ・ゴーゴリ

(1809〜1852)

「私たちはみんなゴーゴリの外套の中から出てきた」 ドストエフスキー

ロシアの小説家で劇作家

南ロシアの村で小地主の家に生まれました。ネージン中学校(七年制)を卒業後ペテルブルグに出て俳優を志望したのですがものにならず挫折。しばらく役所に勤めることになります。彼は働きながら、創作にはげみ、何度も失敗を重ねながら、ついに、ウクライナ物語集「ジカンカ近郷夜話」を出版して文壇に認められるようになったのでした。

ペテルブルグ大学で歴史を教えたこともありますが、その後も「鼻」「外套」の名作を書き、リアリズムの立場から社会生活の醜さと矛盾を写実的にえがき、「リアリズム文学の父」とも呼ばれたのでした。

しかし、その一方では「むかしかたぎの地主たち」等のような、涙と笑いのウクライナ物を書いていました。また、戯曲の代表作と言われる傑作喜劇の「検察官」では笑いの中に、役人の醜さを風刺したりもしています。

彼は、生涯の大作「死せる魂」の第一部をローマで完成しましたが、晩年になってから神秘思想にとりつかれ、肉体も衰えてしまい、彼は、なんと、第二部を火中に投じて燃やしてしまったのでした。身も心も衰弱した彼は、1852年に祖国ロシアへ戻りますが、虚弱と飢えのため、餓死してしまいます。42歳でした。
彼が、死ぬ前の最後の言葉は、なぜか、「はしご、はしご」だったそうです。
「外套」あらすじ

ペテルブルグのある役所の書記である九等文官アカーキ・アカキエビッチという貧しい小官吏は、長年着古した自分の外套がもう修理のできないほどひどくいたんでしまったので飲食費を節約し、血の出る思いでやっと新しい外套を仕立ててもらうことにします。

その外套が仕立てられているあいだに、外套は彼の生涯の夢になってゆきます。しかし、その外套ができあがって最初に着た夜に、ペテルブルクの暗い街区で外套を剥ぎとられてしまうのでした。

彼は、外套を取り返してもらおうと上司に頼み込むのですが、あっさりと追い返され、薄着で吹雪の中に追い出されてしまいます。彼は、寒さの中、風邪をこじらせ、失意の中病死してしまうのでした。

それ以後、通行人から外套を奪う幽霊が出るようになったのです。ある晩のこと、その上司が原っぱを通ったとき、その幽霊が現われて、彼の襟首を捕まえ「とうとうやってきたな。その外套をよこせ」と高慢ちきな上司の外套を剥ぎとってしまうのでした。それからは幽霊はぱったりと姿を見せなくなったということです。
「死せる魂」
ロシア語では魂と言う意味以外にも、農奴という意味もあるそうです。したがって「死せる魂」とは死せる農奴を意味しており、ペテン師のチチコフという主人公が田舎の地主のもとを遍歴して、死んだ農奴を買って歩くという話です。
当時、彼の師匠でもあったプーシキンは「死せる魂」を読んで「神様、ロシアはなんて悲しい国だ」と叫んだと言われているそうです。また、「ゴーゴリ伝」を書いた、亡命ロシア人のアンリ・トロワイヤは「子供の頃はゲラゲラ笑いながら、ゴーゴリの死せる魂を読んだが、大人になってから、こんな悲しい話があるのだろうかと、初めて分かるようになった」と書いているそうです。
ちなみに、日本では「どん底」を書いたゴーリキーと、間違えて覚えている人が多いそうです。皆さんは、大丈夫でしたか?

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