3月


10日
石井桃子(1907〜) 児童文学者 編集者 小説家 翻訳家

 明治40年、埼玉県浦和市に生まれました。1928年日本女子大英文科を卒業し、文芸春秋社を経て、1934年から1936年にかけて新潮社で山本有三と「日本小国民文庫全16巻」の編集と翻訳の仕事をします(IBBYニューデリー大会で、美智子皇后が紹介し、話題になり一部が復刊されています)
 戦後、宮城県栗原郡で友人と農業を始めますが、そこで小学生に本の読み聞かせを始め「かつら文庫」発足につながっていきます。しばらくして、上京しますが、それ以来、東京と東北を往復する生活が始まります。
 1940年12月A.ミルンの「くまのプーさん」を翻訳出版、1942年「プー横丁にたった家」1950年代に入り、それからの日本の絵本の飛躍的な成長のきっかけになった「ちいさいおうち」「ひとまねこざる」等をA5判で出版しました。その後、勉強のため、子供の本の先進国であるアメリカ、ヨーロッパへ渡り、児童図書館を見学し衝撃を受けます。
 創作にも励み長編童話「ノンちゃん雲にのる」(1951年第一回文部大臣賞受賞)「三月ひなのつき」「ちいさなねこ」等、数々の絵本や童話を出版し、1953年日本の児童文学の発展に尽くしたことにより菊池寛賞を受けます。
 彼女の作品は、民主的で豊かな社会と、愛情ある社会に育まれ、のびのび育った普通の子供達の風景が描かれています。1958年に自宅を開放し、小さな図書室を開き(かつら文庫)忙しい執筆の合間をぬい地域の子供達に手ずから読書の楽しさを伝授すると言う草の根活動も実践しました。
 1996年「石井桃子奨学研修助成金」を開設し、子どもと本の世界で働く人を援助しています。他に「トム・ソーヤの冒険」ブルーナの「うさこちゃんシリーズ」等、多くの英米の優れた児童文学を紹介しました。
とにかく、子どものために良い本をと一途に願い、創作し、訳し、又、流通させた、その姿勢が評価されています。
彼女が編集と翻訳に携わった「日本少国民文庫」というシリーズは、IBBYニューデリー大会での美智子皇后様の基調講演でも紹介され、テレビ放映からまもなく、その一部が復刊されました。

皇后様のスピーチの一部

「世界情勢の不安定であった1930年代、40年代に、子どもたちのために、広く世界の文学を読ませたいと願った編集者があったことは、当時これらの本を手にすることのできた日本の子どもたちにとり、幸いなことでした。この本を作った人々は、子どもたちが、まず美しいものにふれ、また、人間の悲しみ喜びに深くふれつつ、さまざまに物を思って過ごしてほしいと願ってくれたのでしょう。当時私はまだ幼く、こうした編集者の願いを、どれだけ十分に受けとめていたかは分かりません。しかし、少なくとも、国が戦っていたあの暗い日々のさ中に、これらの本は国境による区別なく、人々の生きる姿そのものを私にかいま見させ、自分とは異なる環境下にある人々に対する想像を引き起こしてくれました。」
1933年のクリスマス・イヴに、石井さんはある運命的な出会いをしています。くまのプーさんとの出会いです。"The House at Pooh Corner"は、当時10歳位だった犬養道子さんと弟の康彦さんがクリスマス・プレゼントにもらったもので、偶然にも、石井さんが、道子さんたちにせがまれて、すぐに読み聞かせをすることになります。そして、石井さんにとっても道子さんたちにとっても初めての本であったにもかかわらず、熱狂的に受け入れられたのでした。
時を置かずして、石井さんは、"Winnie-the-Pooh"や、ミルンの他の童謡集を洋書店で手に入れます。その時の気持ちを「宝の山に行き当たったようだった」と石井さんは述懐しておられます。
石井さんはアメリカのロックフェラー財団の奨学金を得て欧米へ旅立っています。その冒険旅行ともいうべき一人旅に(当時アメリカへ行くときは、船で、十日以上かかった)、親切に手を貸してくれたのが、アメリカの図書館員や、編集者や、その家族の方たちでした。そして、今、彼女は、「子どもと本の世界で働く人」のための「石井桃子奨学研修助成金」を開設しています。

3月


10日
山下清

1922〜1971

画家


東京市浅草区田中町(現在の東京都台東区日本堤)で生まれました。幼い時には、災難が続き、大正12年の関東大震災では家が全焼。そして、3歳の時には重い消火不良を起こし、3カ月間、高熱にうなされ歩けなくなる程の重態となりました。運良く一命は取りとめたのですが、これがきっかけで軽い言語障害となってしまいます。

昭和3年、浅草の石浜小学校に入学します。彼は、この頃から字を書くよりも絵を描くほうが好きだったそうです。しかし、10歳の頃から知的障害が目立ち始め、そのために周囲の子供達からいじめられるようになります。更に、父が病死してしまいました。

そして、彼は、12歳の時に千葉県の精神薄弱児童養護施設「八幡学園」に入園することになります。ここで、彼は、学園教育の一環として行われていた「ちぎり絵」との出会うことになります。彼は、この「ちぎり絵」に熱中し、独自の技法による「貼り絵」に発展させていきました。そして、注目を集め出した彼の「貼り絵」は、各地で展覧会が開催されるようになり、彼は、一躍有名人になっていったのでした。

しかし、自由を求め続けていた彼は、18歳のときに風呂敷包み一つ持って八幡学園から姿を消して放浪の旅に出てゆきます。彼は、北は北海道から南は九州までを旅しながら。年に一度の割合で学園に戻り、放浪の旅での印象的な風景を貼絵にして、画家や文学者から絶賛される数々の傑作を制作していました。

しかし、昭和28年、彼が31歳の時、アメリカのグラフ誌「ライフ」の記者が放浪中の彼を捜し始め、新聞が彼の捜索に加わり、彼は、翌年1月に発見され、それによって放浪生活が終わることになります。

そして、昭和31年には東京の大丸百貨店で「山下清作品展」を開催、入場者数は一ヶ月で80万人を越えたそうです。その他にも全国で作品展開催し、観客動員数は、なんと800万人を越したといわれています。

彼は、その後、式場隆三郎氏と共に、フランス、ドイツ、イギリスなどヨーロッパ一周スケッチ旅行に出かけ、帰国後は、全国巡回展を開催したり、ヨーロッパでの思い出を貼り絵にしたりしていましたが、昭和46年7月の12日、突然の脳出血で亡くなりました。49歳でした。
彼が、「八幡学園」をでた理由の一つには、翌々年にひかえた、徴兵検査があったそうです。しかし、21歳になって徴兵検査を免れたと思った彼が、母のところへ行くと、問答無用で徴兵検査場へ連れて行かれてしまいました。しかし、結果は「丁種不合格」。はれて徴兵免除となった彼は、再び放浪の旅へ出発したそうです。

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