3月


9日
ユーリ・ガガーリン(1934〜1968)

旧ソ連 宇宙飛行士

 モスクワ東方のスモレンスク州のコルホーズ(集団農場)で労働者をしていた両親のもとに生まれました。モスクワ近郊の職業学校、ボルガ川に沿うサラトフ市の工業中等技術学校を卒業、約一年間技師として働きながら、航空クラブで勉強しました。1955年オレンブルグ(南ウラル)航空士官学校に進み、ソ連空軍パイロットとなり、選抜されて最初の宇宙飛行士グループの一員として訓練を受けました。

彼一人を乗せた人工衛星「ボストーク一号」は、1961年4月12日A−1ロケットによってバイコヌール宇宙基地から打ち上げられ、宇宙へ旅立ちました。「ボストーク1号」は地球周回軌道に入り、地球の大気圏外を108分で1週し、時速2万7400キロメートルで地球をまわり(自転速度より速い)、軌道周回は108時間、地球から最も離れた距離は上空約327キロメートルでした。

軌道上では、ガガーリンは探査機を操縦することはありませんでした。地球大気への再突入は、電波司令を送るコンピュータプログラムにより制御され、この制御装置は、普段はロックされていますが、緊急事態が発生してガガーリンが操作しなければならない時のために、封筒に入れられた手動用の鍵が置いてありました。計画通り、ガガーリンは地球の大気圏に再突入した後、カプセルから脱出してパラシュートで地上に着地しています。

無重力の宇宙空間と、その眺望を初めて経験、その航跡はソ連の追跡線により中継され、彼の言葉は定期的に無線で地球に伝えられました。ソ連がアメリカより先に、有人宇宙飛行を実現したのです。

宇宙飛行の成功の功により、ガガーリンは大衆の前で表彰されています。6時間に及ぶ赤の広場でのパレードの観閲に続くレーニン廟の式典では、当時のソビエト連邦の書記長ニキータ・フルシチョフから謝辞を受けました。

人間が大気圏を越えて宇宙空間で生存できることを証明した功績は大きく。その時の感動を、27歳の彼は「地球は青かった」という有名な言葉で表しています。

その後、少佐に進み、世界各国を親善使節として歴訪、1962年に来日し、帰国後は宇宙飛行士の養成、訓練に努め、1968年2月にモスクワのジュコフスキー記念空軍大学を卒業しましたが、その年の3月27日、ガガーリン大佐は自ら操縦するミグ15戦闘機がモスクワ近郊で墜落したため亡くなりました。

2回目の宇宙飛行の訓練中の事故でした。
ボストーク1号は1961年4月12日、モスクワ時間の午前9時7分にバイコヌール宇宙基地から打ち上げられました。そして地球周回軌道に入り、181〜327キロメートルの高度を地球の自転速度より速く飛び、地球を1周します。その航跡はソ連の追跡船により中継され、ガガーリンは機器の作動状態や無重力の中での体調、窓から見える地球の情景などを、定期的に無線で地球に伝え、わずか1時間48分後の10時55分、ボルゴグラードの北、サラトフ近郊に着地しました。
ボストーク1号は、2つの部分から成り、1つは彼のためカプセルで、もう1つは、酸素や水のような生命の維持に必要な物が入っていました。
現在の着陸(着水)と違い、高度約6キロメートルに達したとき、ボストーク1号によってすでに射出されていた球状再突入カプセルからパラシュートで脱出したのです。この飛行では乗員がコントロールできる部分はほとんどなく、緊急時に制御盤に触れる権限しか与えられていませんでした。

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