3月


7日
モーリス・ラヴェル(1875〜1937)フランス 作曲家 (男性)

フランスの鉄道技師の父と、バスク人の母の間に生まれましたが、生後3ヶ月頃に、パリに移住、音楽好きの父の影響を受けて6歳頃からピアノの勉強を始め、12歳から和声を学びました。

14歳でパリ音楽院に入学し、在学中からすでに有名な「なき王女のためのパヴァーヌ」「水の戯れ」等の作品を書いていました。ちょうどその頃開催された、パリ万博で、インドネシアのガムラン音楽や、リムスキー・コルサコフのロシア音楽を聴き、衝撃を受けています。1897年からフォーレについて作曲を学び、象徴派の文学を愛し、又、サティから影響を受けます。この頃、ドビュッシーを知り、尊敬し互いに影響を受けました。

その後、精力的な創作活動がはじまり「スペイン狂詩曲」「夜のガスパール」などの名曲を生んでいます。1901年以降、ローマ賞に何度か応募するが、2位止まりで、予選落ちしたこともありました。しかし、作曲家として十分に活躍していた彼が、予選落ちしたニュースは、コンクールのあり方を問うものとして大問題になり、パリの音楽院の院長が辞めるまでに発展し、かえって、彼の名声は高まりました。

その後、第一次世界大戦に出征して負傷しますが、戦中から戦後にかけて「クープランの墓」等を作曲し、又、幻想的な作品や、スペイン、アメリカ音楽(ジャズ・ブルース)の反映した作品等もあらわれます。又、自ら指揮棒をとり演奏旅行もするようになります。そんな中、1928年に、今日親しまれている「ボレロ」を作曲しますが、1932年自動車事故にあい、脳疾患をおこし、廃人のような状態で1937年の最後の手術もむなしく世を去りました。

彼の音楽は、洗練された知性と、精密な技巧で、ドビュッシーやフォーレと並びかおり高いフランス近代音楽を代表しています。
モンフォール・ラモリ
パリから西へ約30キロ離れた町。11世紀に創られた町で、高台には廃墟となった城がある。ラヴェルは、1921年から亡くなる1937年まで、ここに住み、『ボレロ』など多くの曲を精力的に作曲した。彼の家は、現在ベルヴェデーレ(美観邸)と呼ばれ、モーリス・ラヴェル記念館となってる。その高台にある家からは、ランブイエの森を見渡すことが出来る。そこに置いてあるラヴェルが練習用使っていたピアノは、一般客でも弾けるようになっている。
フォーレ(1845〜1924)フランスの作曲家。
 サン=サーンスにピアノや作曲を学び、多くのピアノ曲、歌曲、劇場音楽などを作曲した近代フランス音楽を代表する一人。代表作品「レクイエム」。

サティ(1866〜1925)フランスの作曲家。
 簡潔で透明な作風で知られる。交響的劇作品「ソクラテス」、バレエ音楽「パラード」、ピアノ曲「梨の形の三つの小品」など。

ドビュッシー(1862〜1918)フランスの作曲家。
 ワーグナーや象徴派の詩人の影響下に、夢幻の境地を描く印象派音楽を創始した。代表作はオペラ「ペレアスとメリザンド」、管弦楽「牧神の午後への前奏曲」、ピアノ曲集「こどもの領分」など。
ラヴェルは、音楽好きであった父の理解のもとにピアノを習い始めたが、最初はごほうび目当てであったといいます。

3月


7日
中江藤樹(なかえとうじゅ 名は原、字は惟命、通称は与右衛門)

1608−1648

江戸時代前期の儒学者。日本陽明学派の祖

近江国高島郡小川村(現在の滋賀県安曇川町)で生れました。父は農家を営んでいましたが、武士であった祖父は自分の後を継がせようと彼を養子にして米子で教育を始めました。

祖父は、武士には学問も必要であると、彼に文字を学ばせました。人一倍向学心が強かった彼の上達ぶりはめざましく、祖父が手紙を代筆させたほどだったそうです。

その後、祖父は風早郡の奉行になり、彼も、同行し11歳のときに孔子の「大学」に出会います。彼は、孔子の教えを知り、彼の進む道を決めていったのでした。

彼が、15歳になったときに、祖父が亡くなり、彼は、若くして祖父の後を次いで郡奉行に任ぜられました。彼は、見事に重責をはたしていくのですが、その3年後には父が亡くなってしまいます。彼は、何度も母親を呼び寄せようとしたのですが、母は、ふるさとの土地と墓を守ろうと近江から決して離れようとしませんでした。

彼は、母への孝養のためにと、たびたび辞任の希望を藩に伝えていたのですが、聞き入れられず、彼は、27歳の時、ついに脱藩を決意し単身近江へ向かったのでした。

近江へ戻り、母と再開をした彼は、居宅を開放して私塾を開きます。そんな、彼の元に入門しようと、大洲の武士たちが多く訪れ、中には住み込んで彼の教えを受けるものもいたのです。藩は、脱藩した彼をとがめるどころか、彼を信頼し、藩士たちの入門を許してくれたのです。

彼は、当初は朱子学に傾倒しますが、後に人間は皆平等であるという考えに基づき、陽明学を信奉するようになり、日本陽明学派の祖と呼ばれるまでになりました。そして、母親に孝養を尽くして、人を育てることに生涯を捧げた彼は、近江聖人の名で敬われるようになったのです。
彼は、礼記にある教えのとおり30歳になるまで結婚しませんでしたが。30歳になって、ようやく高橋久子という女性(17歳)と結婚することになりました。しかし、母は、久子の容姿があまりに悪かったので、帰そうとしたそうです。しかし、彼は「容貌の美しさは年とともに消えますが、心の美しさは年とともにますます現れます。」と彼女を大切にしました。実際、妻となった久子は、よく気が付きよく働くすばらしい女性で、門人からも大いに慕われ藤樹とともに尊敬されたということです。
彼は、与右衛門と呼ばれていましたが、ふるさとの小川村へ帰り、私塾を開いたとき、彼の家の前には、大きな藤の木があり、その木の下で講義することから藤樹先生と呼ばれるようになったということです。
彼は、最後の夏。喘息がひどくなり、8月25日看病の甲斐もむなしく息を引き取りました。彼の最後の言葉は「私の命は終わろうとしている。私が死んだ後、私の学問を頼む」であったそうです。
彼は、「到良知」「孝行」「知行合一」「五事を正す」という大切な教えを遺しました。

五事を正す

「貌」・・・顔かたち

愛敬の心をこめてやさしく和やかな顔つきで人と接しましょう

「言」・・・言葉づかい

相手に気持ちよく受け入れられるような話し方をしましょう

「視」・・・まなざし

愛敬の心をこめて暖かく人を見、物を見るようにしましょう

「聴」・・・よく聞く

話す人の気 に立って相手の話を聞くようにしましょう

「思」・・・思いやり

愛敬の心をもって相手を理解し思いやりの心をかけましょう

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