3月


6日
ミケランジェロ(1475〜1564)

イタリア・ルネッサンスの総合芸術家(彫刻家、画家、建築家、詩人)

フィレンツェ政庁の高官(警察長官)だった父の赴任地カプセーレで生まれました。6歳のときに母親をを亡くします。彼は里子に出されていたので、ほとんど母の記憶はなかったようですが、母を思慕する気持ちが、後の作品「ピエタ」へとつながったといわれています。             

13歳のときにフィレンツェに戻り、画家の元に入門し絵画を学ぶようになります。そして、14歳のとき、メディチ家の当主ロレンツォ=ディ=メディチ(豪華王)の保護を受けるようになり、メディチ家所有の彫刻から多くのものを学んでいきます。彼はそのときメディチ家のロレンツォ・イル・マニフィコに見出され、同家に引き取られ、彫刻や人体解剖に専念すると共にダンテの著作や旧約聖書及び新約聖書を丹念に読みこなしました。この時期にミケランジェロは教養と芸術の素地を身につけるとともに、自分の才能を十二分に引き出していきました。

1499年に現在のサン・ピエトロ大聖堂にある「ピエタ」という大理石の像を完成させ、名声をはくしました。1501年には市庁からの委嘱で「ダビデ」の大理石像を作り、市庁の門前におかれ、自由を守る象徴とされました。

1508年、法王ユリウス3世からバチカン宮システィナ礼拝堂の天井画を描くことを命ぜられ、4年間の苦労の末に完成させます。又、新法王パウルス3世からも、正面大壁画の製作を依頼され、1535年から6年間もかかって「最後の審判」を描きました。このシスティナ礼拝堂の壁画は、かのゲーテが「イタリア紀行」の中で、「人間がどれほど偉大なことを成し遂げられるか、ミケランジェロの大壁画を見るまでは、だれも分からないだろう。」とまで絶賛しています。

1547年にはサン・ピエトロ大聖堂の造営を引き継ぎました。彫刻では「モーゼ像」などが世界的名作と言われています。又、彼は詩人としても有名でした。

彼は、生涯独身を通し、深い哲学的な思索を行いながら、情熱的に製作に打ち込み、89歳の死の直前まで製作を続けました。
若き日のミケランジェロのエピソード
自信過剰のミケランジェロは友人に自分の作品をからかわれたこと(もちろん冗談で)を間に受けてカンカンに怒り、喧嘩になりました。このとき、ミケランジェロはあろうことか自分の鼻を折られてしまい、一生直らなくなってしまったのです。このことで、彼は自身の顔にコンプレックスを持ってしまったようです。彼の代表作である、 「最後の審判」の中で、ミケランジェロは自身の顔を聖バルトロマイの抜け殻として描いています。
ミケランジェロの言葉
「私は叡知に導かれて、石の中にひそむ芸術作品を取り出しているに過ぎない」
一般に、ミケランジェロは一生独身だったので、女性に対する興味、関心は薄かったとされています。その証拠として、「彼の描く女性の肉体は、男性の特徴しか備えていない」、と言われていますが、そんなことはありません。 詩人でもあった彼は、恋人ヴィットリア=コロンナに宛てて、恋文 まで書いています。
冷徹な知性を持つ「画聖レオナルド」と男性的な激情を持つ「神ミケランジェロ」は、1501年から1505年の間ともにフィレンツェにいた以外は、同じ街に住むことはありませんでしたが、二つの才能は、常に激しくぶつかり合いました。
彫刻を重視するミケランジェロを意識して、レオナルドは「絵画論」を記し、絵画は詩や音楽や彫刻などいっさいの芸術や学問に勝る最高の芸術だと主張した。これに対し、ミケランジェロは、レオナルドの絵画について、「あのくらいのものなら私の下男でももっとうまく描いたでしょう」と述べたといわれています。又、絵画とは、その表現が彫刻に似れば似るほど完成度が高くなるものだ」とも言っています。しかし、ミケランジェロは内心ではレオナルドを尊敬していて、彼の明暗法などの技術を学んでいます。
システィーナ礼拝堂の天井画のエピソード(エピソードだらけです)
妥協を許さないミケランジェロは、フィレンツェから連れてきた助手たちを気に入らずに、追い返してしまったので、作業は遅々として進みません。そこへイライラした教皇ユリウス2世がやってきての問答です。
「いつ完成するんだね?」と聞いた教皇にミケランジェロは「私の作業が終る時です」と答えたのです。教皇は激怒して「何だその返事は!私はいつでもお前をこの足場から下へ叩き落すことができるのだぞ。もう一度返事をしてみろ」と言いましたが、ミケランジェロの答えは、「私の作業が終る時です」でした。これには教皇も何も言えませんでした。結局、気の強い教皇も、芸術に於いてはミケランジェロに一歩譲ったようです。なお教皇は天井画の完成から、3カ月後に亡くなりました。
この壁画は、裸体が非常に多く、かつて教皇庁ではあまりの裸体の多さに目を覆い、この大壁画を取り壊そうという案すら出たので、ミケランジェロに好意的だった教皇パウロ3世は、精密な写しを作らせました。(オリジナルがほとんど裸体であったと分かるのは、この写しのおかげです)結局、裸体に別の画家が腰布を書き足したのですが、この画家は後世「ふんどし画家」と呼ばれたそうです。
しかし近年(1994年)、13年に及ぶ大修復の結果、システィーナ礼拝堂の壁画は色鮮やかに甦り、壁画にかけられた腰布のうち、16体分は取り除かれました。
「最後の審判」製作中のエピソード
ミケランジェロのもとへ、儀典長ビアージョ=ダ=チュナーゼがやって来たときのやりとりです。                  ビ>「なんということだ。裸体だらけではないか。失礼千万な」と言った儀典長に対して、ミケランジェロは激怒して、儀典長を地獄の番人ミノスとして描き、さらにその陰部を大蛇に噛ませたのでしたした。驚いた儀店長は、教皇パウロ3世に「何とか助けて下さい。」と助けを求めたのですが、教皇から「煉獄のことならとりなしもできようが、地獄のことは私の手に負えない。」と言われてしまいました。
この壁画について一言
「神は決して目には見えないはずですが、ここに立つとまるで身近に見えるようです」(ヨハネ=パウロ2世)
ルネッサンスの3巨匠を評した例え話
「レオナルドが生まれ変わるとしたら、偉大な科学者になれるだろう。ラファエロは偉大な政治家になれるかもしれない。しかしミケランジェロはやっぱり偉大な芸術家になるだろう。」
ジョルジョ=ヴァザーリはミケランジェロの芸術を讃えて、こう言っています。
「これからは自然に学ぶことは何もない。ただ、ミケランジェロに学べばすべては事足りる」
彼はミケランジェロとほぼ同じ時代の画家ですが、画家というよりはむしろ美術史家として有名で、彼の著書の、「ルネサンス芸術家列伝」は、重要かつ貴重なものです。
ピエタ
 キリスト教美術で、死んで十字架から降ろされたキリストを、聖母が膝に抱いて哀悼する絵画、彫刻の主題。

ゲーテ(1749〜1832) ドイツの詩人、小説家、劇作家。
 「若きウェルテルの悩み」で一躍名声を博し、詩、小説、戯曲などに数々の名作を生んだ。政治家としても活躍。

メディチ家
イタリアのフィレンツェの名家。大金融業者、商人、のち一門から君主・教皇などを出した。13世紀末から東方貿易と金融業で産をなし、コシモ=メディチは町の政権を握り、ロレンツォ=メディチはルネサンス型君主としてフィレンツェの繁栄をもたらし、その弟は教皇レオ10世となった。一時、市から追放されたが復帰して権力を回復。同家の一族は16世紀後半からトスカナ大公として、1737年まで同公国を支配。

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