3月


4日
賀茂真淵(かものまぶち)(1697〜1769)江戸時代中期の国学者、歌人。

 遠江(とおとうみ)、現在の静岡県浜松のはずれの岡部神社の神官の家に生まれました。京都に出て俗姓は岡部、幼名は三四 (そうし)、のち実名を政躬、真淵などと称し、衛士、県主、県居大人などと号しました。
 30歳の頃、浜松の脇本陣梅谷家の養子となります。早くから文学に親しみ、和漢の学を修めて、荷田派の古学や古文辞学派の影響を受け、特に漢詩や和歌に才能を発揮します。ときどき上京して荷田春満(かだのあずまろ)について国学をおさめました。学問は大いに進みましたが、4年の後、春満がなくなったので、いったん故郷へ帰ってから、40歳の時に江戸に出て浪々の生活をおくりつつ国文学を門人に教えていました。
 その後、優れた学問が認められて真淵の名はしだいに高くなり、50歳のとき将軍吉宗の第二子、田安宗武に仕えて国文学を教えました。多くの書物をあらわし、万葉集を研究して日本の古代精神の特質をあきらかにしました。64歳の時に宗武の元を去って、古典の研究、古道の復興、古代歌調の復活に没頭、特に『万葉集』の研究にめざましい業績を示し、万葉調歌人としても特色をみせました。
 門下から本居宣長や村田春海らのすぐれた学者を出し、「国意考」「歌意考」「万葉集」「源氏物語新釈」「冠辞考」など多くの著書があります。
 享年73歳、江戸で亡くなりました。
彼は、古道(日本古来の自然のままの感情を重んじる精神)を知るには儒教や仏教の影響を受けていない、日本の古典が伝えている日本人の素朴な精神によらなければならない、と考えました。彼は『万葉集』を研究しましたが、その結果見いだした、日本人の素朴で雄々しい精神を、「高く直(なお)き心」と呼びました。儒学の道は理屈っぽくてせま苦しい感じがするが、日本古代の道はおおらかで自然で素直だ、と考えるようになり。そしてその「高き直き心」とは、「ますらお(を)ぶり」だとしました。ますらおぶりというのは、男性的でおおらかな風儀という意味で。これが平安時代以降になると、女らしい、やさしい風儀であるたおやめぶりや、中国から伝わった仏教・儒教の影響を受けたからくにぶりが加わって、古代の純粋さが失われてしまった、と考えました。彼はこの古代の心を伝えることによって、社会をよいものにしようとしました。
真淵と宣長
1763(宝暦13)真淵が伊勢参宮の途中、松坂の宿に本居宣長が訪れて入門し、絶えず文通で真淵先生の教えを受けたそうです。
「真淵の前に真淵なく、真淵の後(あと)に真淵なし」といわれています。
1869年のこの日、明治政府が円貨の制度を定めました。

3月


4日
アントニオ・ビバルディ(1678〜1740)イタリアの作曲家・バイオリン奏者

ベネツィアに生まれました。同地のサン・マルコ大聖堂でバイオリン奏者をしていた父に音楽の手ほどきをうけ、弱冠15歳で聖職につき、25歳で早くも司祭となりました。

しかし生まれながらにして病弱であり聖職にありながらも布教活動は免除されていたため、ベニスに孤児を収容したピエタ慈善院を作り、身寄りのない子供を集めて弦楽器の演奏を教え、音楽指導者として生涯を送りました。この施設はさながらミニ音楽学校と化し、子供たちによる数多くのコンサ−トが開かれるようになったということです。彼は亡くなる1年前の1740年まで音楽監督として同慈善院とかかわりつづけました。

そして、この慈善院で子供達を教えながら、毎週ひらかれる学内コンサートのために協奏曲やオラトリオを作曲していました。そして、この間に彼の名声は国際的なものになっていったのです。

以後はオペラの作曲と上演にもたずさわり、自作オペラ上演のためにローマ、マントバなどへもでかけました。しかし、1940年、ヴィヴァルディはヴェネツィアを離れ、北方に向かって旅に出ましたが、途中、病気のためウィーンの宿泊地でその生涯を終えました。そして、1741年7月28日、彼の遺体は死亡したその日に、貧乏人向け(最低ランク)のごく簡単な葬儀のあと、ウィーンで貧民病院の墓地に埋葬されたそうですが、その墓地は現在は残っていないということです。
作曲家としての活動に専念するようになった1703年(25歳)から、1741年に亡くなるまでの間、750曲という膨大な数の作品が生み出されました。最も有名なのが協奏曲集「四季」ですが、バイオリンのための協奏曲だけでもじつに300曲近くが残されています。

なかでも「四季」は、日本では昔からイ・ムジチ合奏団と四季という組み合わせで有名になり、クラシック音楽の入門曲として一般にも大変ポピュラーな作品となっています。
彼の最期には謎が多く、何故彼が貧困の中で死をむかえたのか、彼の莫大といわれる財産はどうなったのか、故郷のヴェネツィアでなぜ彼の死が話題にすらならなかったのか、詳細はあまりわかっていません。

一説には、オペラ興業で知り合った歌手(アンナ・ジロ)と関係があったとか、司祭であるにもかかわらずミサをおろそかにしていた、ともいわれていますが、これも、民主的なオペラを嫌った政治的な策謀が後ろにあるとする説もあり定かではないそうです。

ただ、ド・ブロス法院長が「私は非常に驚いたことに、彼がこの国で、それ相当に尊敬されていないのを知りました」と語っていたということです。

3月


4日
有島武郎(ありしまたけお)

1878〜1923

安易な道を選んではならぬ。近道を抜けてはならぬ。

小説家,評論家。

東京で横浜税関に勤める父のもとで生まれました。幼時から文明開化の気風になじみ,ミッション・スクールに通って西洋思想を身につけた。学習院を経て札幌農学校(現、北海道大学)に入学します。

札幌農学校在学中、内村鑑三の指導の下に熱心なクリスチャンとなる。、アメリカに留学し、ハーヴァード大学等で歴史と経済学を学ぶうちに次第に信仰に疑問を抱き、文学、特にホイットマンを愛読し、また社会主義にクロポトキンの著書を愛読するようになりました。彼は、これらから強い影響を受けています。その後、ヨーロッパで1年ほど過ごしています。

帰国後、母校の教授となり英語や倫理などを教え、札幌では社会主義研究会や絵の同好会の中心的存在としても活躍し、武者小路実篤や志賀直哉達と明治43年同人雑誌「白樺」を発行し、同人として加わり文学活動に乗りだします。

そして、「カインの末裔」「生まれ出づる悩み」「小さき者へ」「星座」などの創作活動を通して社会矛盾や、芸術と実生活の相克を描き出して第一級の作家となっていきます。

しかし、彼の心の中で、徐々に信仰への懐疑が深まっており、明治44年には信仰を棄て教会から離れています。そして、大正5年には、妻と父を失ったのを転機に本格的に作家生活に入っていったのです。

また、大正11年には社会の仕組みに対する悩みを「宣言一つ」において告白し、人道主義的な生き方を実践しようとして、財産放棄や生活改革を考え、実際に北海道の狩太農場を小作人達に開放しましたが、なお、理想と現実の違いに悩み続け、大正12年、軽井沢の別荘で波多野秋子と心中しました。45歳でした。
彼の最高傑作ともいわれる「或る女」は、すばらしい迫力の雄大な小説です。

アメリカの許婚のもとに向かうために太平洋航路の客船に乗った葉子は、事務長の倉地の野生的な魅力に引かれ、そのまま日本にもどるのでした。そして、世間を敵にまわし、倉地との生活をはじめるのですが、現実の前に葉子は傷つき、死に追いやられていくのでした。

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