3月


3日
グラハム・ベル(1847〜1922)アメリカ 技術者 発明家

 イギリスのエジンバラ市で、視話法を研究していた父の元に生まれました。少年時代から発明工夫の才能があり、よく玩具などを作っていました。又、母の影響で音楽にも秀でていました。
 エジンバラ大学とロンドン大学に学び、発音に関する勉強をしています。24歳の時、勉強のし過ぎで病気になり、余命6ヶ月と宣告されました。二人の子供を亡くしていた父は、カナダへ移住することを決意。これは、彼にとって大変良い契機となり、病気は癒え、ボストン大学の発音生理学の教授となります。

 元来ベル家は、祖父以来、発声の事を研究しており、父メルベルは、発声器官の運動を符号に表す“視話法”という一種の文字を発明しています。ベルは父の研究を耳の不自由な児童に応用し、ボストン市にろうあ学校を開きました。
 彼が、発明の最初のヒントを得たのは、口と耳の不自由な人のために、音響の波動を目の前に見せようとする器具を作った時のことで、後の基礎となります。1872年(明治5年)助手のトーマス・オーガスタス・ワトソン(電気に詳しい町の電気屋さんで、モールス電信の技師であった)の協力を得、電話の発明に専念する。2年後理論上成功し、翌年、初めての微弱な音の伝達に成功し、電流により音声を送る磁石式電話機を発明しました。1876年3月16日「Mr. Watson, come here, I want you.」(ワトソン君、用があるから、ちょっと来てくれないか)という言葉を、隣の部屋で明らかに聞くことができ、アメリカでは、この日を電話記念日とし、記念の言葉としています。

 しかし当時、アメリカでは興味をもつ人が少なく、1876年万国博覧会で、片隅に陳列されていた電話をブラジルの皇帝が見つけ驚いたことで、センセーションを巻き起こしました。博覧会終了後、ボストンに戻り、電話交換事業を起こす事に奔走し、同年10月、ボストン、ケンブリッジポート間(3.2キロメートル)の間に初めて戸外の電話による通信が行われました。また、翌年ボストン市に交換局が設立され、1915年アメリカ大陸横断電話を開通させました。
 彼の発明した原理が現在の電話機の基本になっていますが、後にエジソンが送話器を改良したことで性能が向上し、更に真空管を利用した増幅器の登場により、遠距離通信が可能になり、急速に普及しました。又、フランスよりボルタ賞を送られ、その賞金でボルタ研究所を作り、蓄音機、光線電話、航空機の研究を行い、特に水上機の発達につくしました。
 又、発明と共に耳の不自由な人達への教育にも熱心でヘレン・ケラーとサリバン先生を引き合わせたのも彼であり、長い間親しく付き合っていたと言われています。
彼は、1876年2月14日に電話についての特許を申請しましたが、同じ日にもう一人、発明家のエリシャ・グレーが同じような特許を申請していました。結局は申請が2時間早かったという理由で、ベルが勝ちました。
つまり、ベルは電話機を発明したというよりは、電話機に関しての特許権を先に所有した人物ということになります。
ただし、一説にはその2年前にウィリアム・ヒューマンという人が、また、ある一説には3年前にはアントニオ・メンチェイが電話機を発明したという記録もあります。
日本と電話
日本へはベルが発明したその翌年1877年(明治10年)には伝わっていました。電話を外国人で初めて使ったのは日本人ということになります。つまり、世界の言語の中で英語の次に通話で使われたのは日本語ということになります。
又、アメリカに留学していた伊沢修二(東京音楽学校校長)と金子堅太郎(農商務大臣)が、ベルの下宿で、初めて電話を使いました。
当時、2個の電話機が輸入され、工部省で通話実験しながら細かいところまで調べました。そして1881年(明治14年)に沖電気創業者、沖牙太郎が国産第1号電話機を製造しました。ただし、ベルの電話を基本としていたため、性能は良くなかったそうです。(「まるで幽霊の音声を聞くようだ」と話していたそうです)その後エジソンが発明した電話機が輸入され、通話も改善されて本格的な長距離通話実験が東京と熱海の間で行われました。これが日本の電話創業とされています。
電話の雑学
「モシモシ」の起源にはたくさんの説があります。
金子堅太郎と伊沢修二がベルの下宿で通話した時に使ったという説、電話機研究に熱中して考え出したという説、「モシモシ」は「申す申す」の変形したものだという説などですが、他にも男性交換手が「オイオイ」、女性交換手が「モシモシ」を多用し、男性交換手が東京から姿を消した明治35年ごろから「モシモシ」に一定されたともいわれています。
又、グラハム・ベルは「HoyHoy」を好んで使ったそうです。
ベルは、1888年に設立(せつりつ)されたナショナル ジオグラフィック協会の創立協賛者の一人になっています。彼は協会の2代目会長になり、娘の夫であるギルバート・H・グロブナーを助けて、協会の土台を築き上げました。

3月


3日
大田蜀山人 (おおたしょくさんじん 本名 直次郎)

(1749〜1823)

今までは 他人(ひと)が死ぬとは 思ひしが 俺が死ぬとは こいつぁたまらん

江戸時代中期の文人、狂歌師

江戸の下級御家人の子として生まれました。幕府に使えていました。学問を好み、文にすぐれ、狂歌や狂文をよくしました。19歳の時に作った、狂歌や狂文が評判になり、平賀源内にも認められ,狂詩文「寝惚先生文集」を出版して大いに愛読されました。また、狂歌会に加わって頭角を現し山手連を形成して、狂歌会の第一人者となり,江戸における狂歌流行のさきがけとなりました。その後、狂歌師の朱楽管江(あけらかんこう)と共編で「万載狂歌集」を出すと、流行はさらにさかんとなってゆきました。

彼は、通称は直次郎でしたが、号は、蜀山人、大田南畝(おおたなんぽ)。狂歌名は四方赤良 (よものあから) 。戯作名は山手馬鹿人 (ばかひと) 。狂詩名は寝惚 (ねぼけ) 先生と名のり、その他にも、杏花園、玉川漁翁、石楠齋と多くの名を持っていました。

彼は、奇知奇行に富んで、作品で賄賂で動く幕臣の腐敗を攻撃するなどして、江戸町民の共感を得て愛されていました。また、洒落本や、黄表紙なども書き江戸文化に大きな影響をあたえています。

しかし、寛政改革の嵐が吹き飛ぶなか、有名な「世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶと言うて夜も寝られず」の狂歌が、彼の作だとされたこともあり、その後、身を慎んで、46歳の時に湯島聖堂での学問吟味を受験し、優秀な成績を修めて、幕臣としての公務に専念し、70歳を過ぎる頃まで勤務を続けました。そのかたわら「一話一言」をはじめ多くの随筆を書き、持ち前の鋭い風刺や皮肉を示しました。

彼は、和漢に通じた学才で、狂歌のみならず、漢詩文、戯作、随筆などに爛熟の江戸中期第一等の文人として才筆を揮わせました。
彼は、日本で初めてコーヒーを飲んだ人と言われています。また、土用の丑の日を始めたのは、平賀源内とする説が有名ですが、一部には、太田蜀山人だったとする説もあり、彼のグルメぶりが伺われます。ちなみに、コーヒーの味については「紅毛船にて「カウヒイ」といふものを飲む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり、焦げくさくして味ふるに堪ず。」と、あまりお気に召さなかったようです。
神ならば 出雲の国へ 行くべきに 目白で開帳 谷保(やぼ)の天神

むかし、江戸の目白で、谷保天満宮の宮司が氏子総代と相談をし、江戸のさかり場で出開帳をして、なにがしかの賽銭を得ようと言うことになり、なんと、神無月に江戸の目白で出開帳を行いました。出開帳には多勢の参拝者が集まって、一応成功を納めたのですが。

蜀山人が、上のような狂歌を詠んだことから、谷保天神はヤボな神さまだと、谷保天を野暮天にすりかえて口にするようになってしまった、ということです。

ちなみに、広辞苑でも、「野暮天(やぼてん)=谷保天神の神像から出た語という。きわめて野暮なこと。またその人。やぼすけ。」と解説されているそうです
永代橋の落橋事件
文化4年(1807)8月15日深川八幡の11年ぶりの大祭が雨で順延になり19日に執り行われ、人気を呼んで庶民が殺到しました。そのとき、一橋公が船でこの下を通った為一時通行止めにしたのですが、解除後に一時期に群衆が殺到してしまい、人の重みで橋が落ち、大災害になってしまいました。奉行所の発表では死者は440人でしたが、実際には1500人を越えていたと言われています。

このときに、彼が読んだ狂歌が、下のものです

  永代と 言われし橋が 落ちにけり 今日の祭礼 明日の葬礼

ちなみに、この橋が落ちたとき、後ろの群衆はその事が判らず、前へ前へと押していき、中央でつぎつぎと河に転落して行きました。このとき、1人の武士が、中央で欄干に捕まり大刀を抜き振り回し、それを見た群衆が恐れて後ずさりをしたため、大勢の人が助かったと言われています。

この事故によって、死体は下流の品川沖まで流され、また幾日も下駄が沿岸に流れ着いたと言うことです。
  世の中に蚊ほどうるさきものはなし ぶんぶといふて夜も寝られず

  曲がりても杓子は物をすくふなり 直ぐなやうでも潰す擂子木

  孫の手のかゆき所へとどきすぎ足の裏までかきさがすなり

彼がにらまれる原因となった狂歌なのですが、彼自身は「是、大田ノ戯歌ニアラズ、偽作也。大田ノ戯歌ニ時ヲ謗リタル歌ナシ,落書躰ヲ詠ミシコトナシ。」と自ら否定しています。実際はどうだったのでしょうね。

  世をすてて 山に入るとも 味噌醤油 酒のかよひぢ なくて叶はじ

  冥途から もしも迎いが 来たならば 九十九まで 留守と断れ

  生きすぎて 七十五年 食いつぶす 限り知られぬ 天地の恩

  ひとつとり ふたつとりては 焼いて食ふ 鶉なくなる 深草の里

  雑巾も 当て字で書けば 蔵と金 あちらふくふく こちらふくふく

  朝もよし昼もなほよし晩もよし その合々にチョイチョイとよし

  月みれば 千々に芋こそ 喰ひたけれ 我身ひとりの すきにはあらねど

  あなうさぎ いづくの山のいもとせを さかれて後に 身をこがすとは

  山里は冬ぞ寂しさまさりける やはり市中がにぎやかでよい

  山里に尻込みしつつ入りしより うき世の事は屁とも思はず

   







 中国から奈良時代に伝来した5節句では、桃の節句のことを「上巳」(じょうし)といいました。
1月7日 人日(じんじつ)3月3日 上巳(じょうし)5月5日 端午(たんご)7月7日 七夕(しちせき)9月9日 重陽(ちょうよう)
七草を除く節句は、すべて三月三日、五月五日のように、縁起が良いと言われる奇数の重日におこなわれました。
 中国の上巳の祭を継承したのが「流し雛」です。古くは旧暦の3月3日頃が桃の花の咲く時期に当たり、中国伝来の考えでは、桃には魔よけの力があるとされましたので、この日、紙を人間の形に切り人形(ひとがた)をつくり穢れを移して川に流したり、桃から作られた酒を飲んで、禊(みそぎ)を払い、無病息災を祈る「流し雛」という行事がおこなわれました。現在も流し雛は、吉野川、紀ノ川付近に残り行われています。
 「流し雛」は、平安時代に貴族たちの間で「曲水の宴」に発展し、水辺に座り、上流から流れてきた杯が目の前を通り過ぎないうちに歌をよみ、杯を取り上げて酒を飲むという風雅な遊びになりました。雛は語源として「ひいな」から出ています。
 「ひいな」は平安の女流文学『枕草子』『源氏物語』『蜻蛉日記』などに登場する官女手作りの男女一対の人形でした。男ひいな、女ひいなのちいさな人形で遊ぶおままごと遊びは、「ひいな遊び」といわれました。
 「流し雛」や「ひいな遊び」が江戸時代に結びつき、お雛さまを飾り、桃の花や白酒、菱餅やあられなどを供えて祝う現在の「ひな祭り」の形になりました。
 そもそも桃の節句も端午の節句も男女の区別はなかったのですが、江戸時代に雛人形は女の子のお祝い、勝負に通じる菖蒲(しょうぶ)は男の子のお祝いと分かれていき、「ひな祭り」には女の子が健康で無事に美しい女性に成長ますようにという家族の願いを意味します。ひな人形が身代わりになって、その子に事故や病気がなく結婚などの人生の幸福を得られますようにという想いが「ひな祭り」にたくされています。

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