3月


2日
ミハエル・ゴルバチョフ(1931〜)旧ソ連 大統領 政治家

 モスクワから南へ1600キロ離れた、コーカサス山麓の田園地帯にあるプリボークリエ村に農民の子として生まれました。当時のソビエトはスターリンの独裁による圧政から戦争へと移ろうとする時代でした。
 スターリンは農業集団化を目指し、農民から強制的に土地を取り上げ、多くの農民がこの政策の犠牲になりました、祖父もその1人でした、さらにゴルバチョフの父も召集され戦地へと駆り出され、暮らしは見る見る貧しくなっていきます。しかし、両親は苦労して学校に通わせ、彼もそれに応えていつも優秀でした。
 14歳の時、父が復員してからは、父子で畑を大豊作に導き、労働勲章を受け、農民の子としては異例のモスクワ大学への推薦入学が認められ、法学部に入学します。自ら共産党に入党しますが、理想を信じながらも矛盾を感じるようになります。
在学中、同じような貧しい家庭で育った女性ライサと出会い、結婚(学生食堂で式を挙げた)。卒業後、故郷に戻り、地元の党組織の活動家として新たな人生をスタートさせることになります。以後の20年間は、妻と議論を交じわしたり、書物を読みあさったり、力を蓄える充電期間となりました。1974年、43歳の時には、地方の第一書記(県知事)になっていましたが、中央から声がかかり。指導部入りを果たします。当時ソビエトはアメリカとの冷戦中で、軍拡競争に莫大な金が使われて、経済は破綻、犯罪が急増するなど社会は危機的状況に陥っていました。
 1985年、チェルネンコが死亡した夜、彼は妻に「本気で何かを変えようとしたら指導者にならないといけない。このままではだめなんだ。」と呟いた。そして書記長に就任して、情報公開等のペレストロイカと呼ばれる改革を進め、民主化を目指しました。90年には大統領制を取り入れ、自ら初代大統領に就任します。そして、この年ノーベル平和賞を受賞しています。
 それまでは、首都モスクワの共産党のトップが連邦を構成する15の共和国に決まった政策を行うように命令していましたが、大統領制や市場経済を取り入れたことで、各共和国に連邦から独立しようとする動きが出始めました。バルト海沿岸のエストニア、ラトビア、リトアニアのバルト3国は、もともと第二次世界大戦前は独立国だったのがソ連に攻め込まれて連邦に入れられたため、特に独立の動きが激しく、また、中央アジアの共和国はイスラム教徒が多いため、宗教上の理由から自立を求めました。
 彼は、それまでのソビエトの常識を、次々と覆していきました。しかし、それらの改革は周囲の反発を呼び、自身の権力基盤、共産党そのものを分裂に追い込んでしまいす。1991年8月、保守派によるクーデタが勃発、彼は妻と共に休暇で訪れていた別荘に監禁され、命の危機にさらされました。しかし、ペレストロイカで目覚めた一般市民達によりクーデタを阻止され、モスクワに戻ることができました。
 人々は自由と多様性を知り世界もまた変わり始めていたのです。この事件の直後、バルト3国やアゼルバイジャンなどが連邦からの離脱を宣言し、ソ連共産党もクーデター失敗で力を失い解散しました。12月、エリツィンが大統領になったロシア連邦を中心に11の共和国(当時)で作る独立国会共同体(CIS)が結成され、ソ連は崩壊しました。
彼は、指導者としての時代が終わった事を知り、クレムリンを去ります。引退後、ゴルバチョフはライサと共に、人々の行く末を見守りながら、充実した時間を送っていましたが、1999年、ライサ夫人が急性白血病で亡くなります。
 彼は今「彼女無くして、ペレストロイカは成し得なかった。」と語っています。
ソビエトの歴史(ゴルバチョフの登場まで)
ソビエト連邦はマルクスの共産主義運動を実際の国家で実現しようとするレーニンらが2月革命、10月革命を経て1922年に成立しました。レーニンの死後はスターリンが半ば恐怖政治的な強権政治を行って強い国家を建築します。
しかし、その専制の中で社会的矛盾が多数噴出し、スターリンの死後はフルシチョフが民主化を進めて改革しようとしますが、失敗、政権は緩やかな社会主義を実現しようとするブレジネフの元でソ連は大いなる停滞と平穏の時代を過ごします。『ブレジネフはみんなが乗ってる列車の行く先の線路がもう無いのに外から列車を揺すってあたかも列車が走っているかのように思わせていた』そう評した人もいます。
ブレジネフが亡くなった後もまだまだ改革は始まりませんでした。既得権を持つ共産党幹部たちに対抗して国民に活力を吹き込もうとする指導者は古い世代にはほとんどいませんでした。彼の後は1983年6月からはアンドロポフ、1984年4月からはチェルネンコといった長老が書記長を引き継ぎ、ソ連の政治はブレジネフの時以上に停滞します。
しかしこの中で登場したゴルバチョフはその止まっていた列車のドアを開け、みんなに「おおーい、おりてみろ!もう線路がないぞ」と叫んだのです。
ライサ婦人
ライサ夫人は1932年1月5日、中国とモンゴルがすぐそばに迫るシベリアのアルタイ地方のルブツォフスク町で鉄道員の家庭に生まれました。中学を「全優」の金メダルで卒業、「ソ連の東大」といわれるモスクワ大学哲学科に入学します。そして、1951年に法学部の学生だったゴルバチョフ氏と知り合い、1953年に学生寮の食堂で結婚式をあげる。ゴルバチョフ氏の一目ぼれだったといわれています。
 大学時代、夫人はゴルバチョフ氏の「教養係」として、文学や絵画や音楽を手取り足取り指導したといわれています。
ゴルバチョフ氏の補佐官だったシャフナザロフ氏は「ライサ夫人のおかげでゴルバチョフ氏は人間らしいソ連の指導者として世界で受け入れられた。夫人はソフトなソ連のイメージ作りに多大な貢献を果たした」と語っっています。
 1985年にゴルバチョフ氏が共産党書記長に就任すると、従来の家庭に閉じこもる指導者夫人の慣例と殻を打ち破って外遊や地方視察に同行して献身的に尽くす内助の功ぶりを披露、ペレストロイカの一つの象徴として西側から熱狂的な支持を受けた。ロシア人女性にしては小柄でやせ形、そして愛くるしい夫人の華麗なファッションが人気を集めた。
 1989年の保守派のクーデターでクリミア半島の別荘で軟禁された際は、一家処刑を覚悟しながら元大統領に「私たちはあなたといつも一緒です。あなたの決定(辞任要求拒否)は重要です」と気丈に支えた。
ライサ夫人の最後の夢は「海のそばにある暖かく小さな家で夫と静かに余生を過ごす」ことだったという。
ライサ夫人は7月21日、モスクワ中央病院で検診した際に白血病が発覚後、ドイツの大学病院に移り、骨髄移植手術を行う予定だったが、容体が悪化。移植手術ができないまま死去した。入院以来、付き添っていたゴルバチョフ氏は徹夜で伴りょの最期を看取った。エリツィン大統領とナイナ夫人はゴルバチョフ氏に弔電を送っています。
ゴルバチョフはまず、外交の場にライサ夫人を伴って現れ、人々を驚かせました。男尊女卑の意識が強かった、それまでのソ連の常識をいきなり破ったのです。そんな妻に支えられ、ゴルバチョフは東欧諸国の解散、ベルリンの壁崩壊、中距離核兵器全廃など軍縮、そして、40年にも及ぶ東西冷戦も終結させたのでした。

3月


2日
米内光政(よない みつまさ)

(1880〜1948)

「人間というものはね、いつ、いかなる場合でも、自分のめぐりあわせた境遇を、もっとも意義あらしめることが大切だよ。」

海軍軍人、政治家。

岩手県盛岡市の、元南部藩士の家に生まれました。海軍兵学校に入学し、日露戦争中は中尉として実戦を経験。その後、海軍大学校を経て、ロシア大使館付武官補佐官、「陸奥」艦長、第三艦隊司令長官、佐世保・横須賀鎮守府司令長官などを歴任し、昭和11年に連合艦隊司令長官に就任しました。

昭和12年には、海軍大臣に就任。これは、林銑十郎(陸軍大将)首相は組閣に際して、海軍の中でも強硬派で知られた末次信正を望んでいましたが、海軍は、それを阻止するために穏健派の彼を選んだのでした。彼は次官に山本五十六を充て、2.26事件以来の陸軍主導の政治に何とか歯止めをかけようとしました。

昭和15年、内大臣湯浅倉平が彼を推挙し、首相となりました。当時、第2次世界大戦は既に始まり、ドイツとソ連がヨーロッパを席巻していました。英仏の敗北を確信した陸軍は、「バスに乗り遅れるな」とばかりに、ドイツとの同盟論を再燃させましたが。彼は山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長とともに海軍部内を抑え、陸軍の日独伊三国同盟締結に反対していましたが、陸軍は畑俊六陸相を辞任させて、米内内閣を潰し、ついに同盟を締結し、日本を戦争へと引きずり込むことに成功てしまいました。

しかし太平洋戦争の戦局が悪化し、東条内閣が崩壊するや、小磯内閣に副首相格の海相として復帰し、さらに鈴木、東久邇、幣原の各内閣に留任して、再起不能なまでの亡滅を避けるべく腐心し、そのためには無条件降伏という厳しい要求をも甘受したのでした。沈着にして的確な判断力と一方に偏らないその姿勢は、閣内で重きをなし、「良識の提督」として多くの信望を集めたと言われています。

昭和23年4月20日東京・目黒富士見台の自宅で69才の生涯を閉じました。
その後昭和35年に、盛岡で米内光政の銅像が建てられました。戦後、軍閥批判が続いてきた世相のなかでは希有のことで、戦前・戦後を通じ政治に関与しながらも、軍人としての名声を保持している数少ない人物であるといえるでしょう。
終戦後、彼は、戦争犯罪者として糾弾されることを覚悟していましたが、GHQ軍政部は、「米内大将については、自分たちの方で生い立ちからすべてしらべてある。命を張って三国同盟と対米開戦に反対した事実、終戦時の動静、全部知っている。米内提督が戦争犯罪者に指定されることは絶対にあり得ない」と断言していたといわれています。
彼は日本海軍を侵攻用と考えず、防衛用と考え、陸軍の推す日独伊三国同盟に対して「勝てる見込みはありません。だいたい日本の海軍は米英を向こうに回して戦争するように建造されてはおりません。独伊の海軍にいたっては問題になりません」と答えたそうです。
また、日米戦争直前に開催された重臣会議においては、「このままでは日本はじり貧である」という『じり貧論』に対して、「俗語で恐れ入りますが、じり貧を避けようとしてどか貧にならぬようご注意を願います」と発言しています。

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