2月


26日
ビクトル・ユーゴー(1802〜1885)フランス 詩人、小説家、劇作家

ブザンソンで、熱烈な共和党員でナポレオン1世の軍人(将軍)だった父の3男として生まれました。父の意思により軍人を志しましたが15歳頃から詩を書き始め、早くから自己の文学的使命に目ざめ、20歳で処女詩集「オードと雑詠集」を出版し、以後、文学に打ち込みました。

数々の詩集をつくる一方で、1827年、戯曲「クロンウェル」又、「ノートルダム・ド・パリ」(ノートルダムの鐘)を発表します。ロマン主義をとなえ、フランスを代表する作家の一人となりました。

政治にも関心を持ち、1845年上院議員となり、1848年の2月革命に刺激され、1851年ナポレオン3世のクーデターに抵抗し亡命しました。再びフランスに戻るまで、19年もの間、主に英仏海峡のジャージー島とガーンジー島で生活し、ナポレオン3世を攻撃する「懲罰詩集」や大作「レ・ミゼラブル」(ああ、無情)(1862年)等を発表しました。

その後、ナポレオン3世の亡命(帝政崩壊後)と共にパリに戻り、国民議会議員や、上院議員を務めました。ロマン派の総帥、国民的大詩人として、また、一貫した共和主義者として、フランス史上不朽の足跡を残し、その死は国葬で送られ、パリ中の人が参列したといわれています。

「レ・ミゼラブル」「ノートルダム・ド・パリ」は映画や、ミュージカル等でも非常に親しまれている。
軍人だった父が、ユーゴーに「お前はヴォージュ地方の最高峰のドノン山上で懐妊した」と伝えた話は、神に選ばれた人間である証拠だと彼を狂喜させ、誇大妄想狂的な天才神話を信じ、人間形成に大きな影響を残したといわれています。
彼は、幼馴染みのアデル・フーシェと結婚しましたが。才能のあるユーゴーにコンプレックスを持っていた次兄ウージェーヌもアデルに恋をしていたので、後に発狂して自殺してしまい、長く彼を苦しめる事になります。
ユーゴーは1841年39歳の時から 『レ・ミゼラブル』を書き始めます。この作品を書こうと思いついたのは、パリの下町に住む、貧しい人達の生活を描いた新聞小説「パリの秘密」を読んでからだと言われています。その後、彼はこの作品のため、刑務所、児童の働く工場、貧民街を視察しています。
21年後の1862年60歳 『レ・ミゼラブル』を書き上げました。知人にあてた手紙の中で「もし、この本が人に感動を与えなければ、私は2度とペンはとらない」と書いています。
ユーゴーは膨大な年月のかかった作品を、できるだけ良い条件で契約したいと考え、付き合いのあったエッツェル出版社ではなく、ベルギーのラクロワと30万フラン(約6億円)の契約を結びました。
ラクロワは『レ・ミゼラブル』を出版した後、6年間で52万フラン(約10億4千万)の純益を上げたそうです。
ヴィクトル・ユーゴー最後の言葉は「黒い光が見える」だったそうです。
「レ・ミゼラブル (ああ、無情)」のあらすじ
50才少し前の主人公、ジャン・バルジャンは、ひもじい思いをしている妹の子供たちのためにパンを一斤盗んだかどで、厳罰に処せられました。19年に及ぶ囚人船での刑期を終えた後、釈放されましたが、前科者であったために職が見つかりませんでした。しかし、ある年老いた善良な司祭の家にやって来ると、司祭は親切にも夕食と一晩の床を与えてくれました。
ところが、ジャンは誘惑に負けてしまい、司祭の銀食器を盗んで、そっと外に忍び出てしまいます。しかし、まもなく警察に捕まって司祭の家に連れ戻されるのですが、その親切な司祭は、 「ええ、その銀の食器はこの方に差し上げたのですよ。ジャン、燭台を持っていくのを忘れているよ。」と言ったのです。
この深い思いやりにジャンは驚き、完全に心を改めたのでした。小さな親切が、罪人の心を救い主に開かせたのでした。
というところから、この物語は始まります。
ユーゴーは「この世に貧しさがある限り、この本の意味は失われないであろう」といっています。
ロマン主義
一八世紀から一九世紀にかけて、ヨーロッパを中心に隆盛した思潮。文芸思潮に端を発し、情緒や自然の重視、超理性的なものや永遠に向かう傾向、創造的個性の尊重など、普遍的、理性的なものを理想とする古典主義に対立する思想として発展、広く芸術・文学・哲学・宗教のあらゆる分野に及んだ。文学ではゲーテ、ホフマン、ワーズワース、ユーゴーなど。

2月


26日
与謝野鉄幹(よさのてっかん 本名 寛 ひろし)

(1873〜1935)

われ男の子意気の子名の子つるぎの子詩の子恋の子あゝもだえの子

明治大正時代の歌人

真宗の僧職の4男として京都に生まれました。幼いときから仏典や漢籍、国書を学び、天才児と呼ばれるほどでした。明治25年に上京して落合直文を師として和歌、国文を学びました。歌論「亡国の音(ね)」において従来の女性的な歌を非難し、男子の歌をとなえて日清戦争に従軍するなど志士を持って任じ、「東西南北」「天地玄黄」などの詩歌集を刊行しました。日清戦争前後の日本が国家主義的風潮に満たされる中で、彼の威勢のよい短歌は「虎剣調」とも「ますらをぶり」とも称されました。

明治32年「東京新詩社」をつくり、翌年、文芸雑誌「明星」を発刊して、ロマン主義文学運動の中心となり、明治34年鳳昌子(ほうしょうこ)と結婚しました。歌のよみぶりはだんだんやわらかな牧歌長に変わっていきました。そして、妻晶子とともに浪漫主義運動を華麗に展開して、石川啄木、北原白秋、吉井勇など多くの歌人を世に送りだしました。
彼の、初期の詩「人を恋ふる歌」はとくに有名で、多くの人が愛唱しました。

[人を恋ふる歌]  「明治30年京城に於て作る」とあるそうです。

   一番 妻をめとらば才たけて みめ美わしく情ある 友をえらばば書を読みて 六分の侠気四分の熱

   二番 恋の命をたずぬれば 名を惜しむかな男ゆえ 友のなさけをたずぬれば 義のあるところ火をも踏む

   三番 汲めや美酒うたひめに 乙女の知らぬ意気地あり 簿記の筆とる若者に まことの男君を見る

   四番 あゝわれコレッジの奇才なく バイロンハイネの熱なきも 石を抱いて野にうたう 芭蕉のさびをよろこばず

   五番 人やわらわん業平が 小野の山ざと雪をわけ 夢かと泣きて歯がみせし むかしを慕うむら心
 
   六番 見よ西北にバルカンの それにも似たる国のさま あやうからずや雲裂けて 天火一度降らんとき

   七番 妻子を忘れ家を捨て 義のため恥を忍ぶとや 遠くのがれて腕を摩す ガリバルディや今いかに

   八番 玉をかざれる大官は みな北道の訛音あり 慷慨よく飲む三南の 健児は散じて影もなし

   九番 四度玄海の波を越え 韓の都に来てみれば 秋の日かなし王城や 昔に変る雲の色

  十番 あゝわれ如何にふところの 剣は鳴りをひそむとも 咽ぶ涙を手に受けて かなしき歌の無からめや

  十一番 わが歌声の高ければ 酒に狂うと人のいう われに過ぎたるのぞみをば 君ならではた誰か知る

  十二番 あやまらずやは真ごころを 君が詩いたくあらわなる 無念なるかな燃ゆる血の 価少なき末の世や

  十三番 おのずからなる天地を 恋うるなさけは洩らすとも 人をののしり世をいかる はげしき歌をひめよかし

  十四番 口をひらけば嫉みあり 筆を握れば譏りあり 友を諌めて泣かせても 猶ゆくべきや絞首台

  十五番 おなじ憂いの世に住めば 千里のそらも一つ家 己が袂をというなかれ やがて二人の涙ぞや

  十六番 はるばる寄せしますらおの うれしき文を袖にして きょうは北漢の山のうえ 駒立て見る日出づる方

また、彼は、「旧派の和歌は女性的であり亡国の響きを持っている。」として、男性的な威勢のよい、こんな歌を作っています。

   いたづらに 何をか言はむ 事はただ この太刀にあり ただこの太刀に

(何を無駄なことを言っているのか? 勝負を決めるのはただこの太刀だけ、この太刀だけなのだ)

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