2月


25日
オーギュスト・ルノアール(1841〜1919)フランス 画家(男性)

貧しい仕立て屋の息子として、南フランスの陶器の産地として有名なリモージュに7人兄弟の6番目として生まれました。3歳のとき一家でパリに移住、サン・トスタッシュ大聖堂の聖歌隊に入り、音楽の才能を隊長であった作曲家のシャルル・グノーに認められ、本格的に誘われたといわれていますが、その道には進みませんでした。

又、同時に絵の才能にも恵まれていましたが、経済的な理由から、学校へは行かず、13歳の時、パリの陶器絵師の弟子になり、絵付けの仕事をしながら、夜間のデッサン学校に通いました。

17歳で失業後、教会堂などの装飾に従事しながら許可をもらい、ルーブル美術館で絵の摸写に励みます、その後、お金をため、国立美術学校に入学し、モネやシスレーらと交わり、彼らと、よく森へ出かけ自然光の元で絵を描き、新しい絵画を志し、印象派運動に加わります。

又、コロー、ドラクロアなどの影響を受け、光り輝く色調の中に鮮やかな色彩感を持った作品を発表します。1864年サロンに初入選、翌年は2点が入選し、少しずつ絵の注文が増えてきましたが、生活は苦しく友人たちの援助を受けながら生活していました。

1870年から71年、普仏戦争に徴兵され、創作活動は一時中断します。この戦争で友人も失ってしまいます。

1881年のイタリア旅行で古代ローマやルネッサンス美術にふれて以後、印象派運動から離れて、印象派のもつ温かさと古典主義の持つ気高さを融合させ、独自の色彩を用い、特に裸婦の美しさを描いた、数多くの名作を残しました。

1890年結婚、3人の息子を設けました、特に末の息子はお気に入りのモデルとなりました。この頃は、生活も安定し、名声を得、政府からレジオン・ドヌール勲章も与えられましたが、逆に体は病魔(リュウマチや痛風等)に蝕まれて不自由となり、南仏カーニュに家を建て(現在ルノワール美術館となっている)すごすようになります。

しかし、指の間に絵筆をはさんでもらいながら絵を描き続け、強い精神力で陽気にふるまっていました。晩年は、名声が益々高まり、業績が称えられました。

肺うっ血のため78歳で亡くなりました。「色彩の魔術師」といわれ、その優しく穏やかな作品は、今も多くの人々に愛されています。

彼は、「色彩の魔術師」といわれ、その優しく穏やかな作品は、多くの人々に愛されています。
代表作「桟敷席」「浴女たち」
ルノアールの言葉
「芸術が愛らしいものであって何故いけないんだ? 世の中は不愉快なことばかりじゃないか」
「陽の当たる裸婦」のエピソード
この素晴らしい裸婦像が発表された時、印象派への酷評で知られるジャーナリズムは「紫・緑の斑点がある腐敗しかかった肉の塊」と評したそうです。
「浴女たち」のエピソード
この絵のモデル、カトリーヌ・エスランは次男ジャンと結婚しています。カトリーヌが「女優になりたい」と言ったため、ジャンは陶芸家になるのをあきらめ、映画監督になりました。そして、『女優ナナ』では、彼女を主演女優にしています。
ジャン・ルノアール
今なお世界中の映画監督に影響を与え続ける、フランス映画界の巨人。 印象派の画家ルノワールを父に持ち、その遺産でプロダクションを設立。24年に初監督作を発表。その後、数々の名作を残し、フランス映画に黄金期をもたらした巨匠。
父譲りの色彩感覚を生かした映像の独自性は、のちの映像作家に多大な影響を与えた。
その他代表作: 『素晴らしき放浪者』('32)『どん底』('36)『大いなる幻影』('37)『獣人』('38)『フレンチ・カンカン』('54)『草の上の昼食』('59)『捕らえられた伍長』('61)
1670年のこの日蒸気機関車が初めて走りました。

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