2月


22日
ジョージ・ワシントン(1732〜1799)アメリカ、政治家、初代合衆国大統領
バージニア州北部、ウェストモアランドの富裕なプランター(大農場主)の家に生まれました。17歳で測量技師となりましたが、英仏植民地戦争にイギリス軍の少佐として参加。この戦いで手柄をたて、軍人として知られるようになります。

その後、イギリスの植民地であったアメリカが本国イギリスに対して独立戦争を起こすと、指導者の一人となり、1774年の大陸会議にはバージニア州代表として出席し、翌年独立軍総司令官に選ばれました。1776年7月、独立宣言書を発表し、英本国軍との苦しい独立革命戦争に入ります。

この間、独立軍は、初め武器・弾薬・食料の不足などで苦戦を続けていたが、ワシントンの指揮下でよく戦い、サラドガの戦い(1777.10)でイギリス軍数千を降伏させた。
まこの間、独立軍は、初め武器・弾薬・食料の不足などで苦戦を続けていました、正規軍として確立していなかった寄せ集めの兵からなる民兵組織を再編し、ワシントンの指揮下でよく戦い、1777年のサラドガの戦いではイギリス軍数千を降伏させ、1781年にはヨークタウンで英軍を破り、戦争を勝利に導き、1783年にアメリカの独立を成し遂げました。

1787年バージニア州を代表してフィラデルフィア憲法制定会議に出席し、議長を務め1789年新憲法発布と同時に満場一致で初代大統領に選ばれました。強力な中央政府の実現に努力し、ハミルトンを起用して国家財政を確立させ、1792年に再選後も、国内政治の整備に努め、フランス革命には中立を守り、モンロー主義の基礎を築きましたが、3選めには民主主義に反するといって「決別の辞」を送り、政界を引退しました。
ワシントンといえば「桜の木」を切り倒したことを父親に正直に告白した話で有名ですが(これは創作だそうです)真面目で正直であったということから、今でも「建国の父」として尊敬されています。
彼の誕生日には各地の商店で安売りが行われ、特にチェリーパイの安売りは有名です。これは彼が桜の木を切った(cut)ことにちなみ、値段をカットすることから起こったといわれていますが、定かではありません。
また、首都の郊外にある彼の墓には毎年誕生日に木の葉を輪にしたリースが供えられ、22日には彼が植民地軍を去る時に部下の将校に言った有名な別れのスピーチが上院で読み上げられるそうです。
7月4日に公布された、独立宣言書の一節
「すべての人間は生まれながらにして平等であり、創造主によって一定の奪いがたい権利を与えられ、そのなかには生命、自由、および幸福の追求が含まれていることを、われわれは自明の真理であると信じる」  
ちなみに独立戦争当時、茶を飲まないことが愛国者の心意気(ボストンの茶会事件から)とされたのだそうです。もしかしたら、アメリカでコーヒーが好まれるようになった理由は、このあたりにあるのかもしれませんね。
ワシントンの逸話の一つ(まるで、水戸黄門のようですね)
その日は、寒く、本部を出たワシントンは外套をまとい、襟を立て、肌を刺すような風から顔を覆うために帽子を深くかぶりました。全身をすっかり覆っていたので、彼が軍隊の司令官だとは、誰も気がつきませんでした。
 ワシントンが道を歩いて行くと、兵士達が要塞の防壁工事をしている所に差しかかりました。そこで立ち止まって、数人の兵士達が丸太で塀を作るのを見ていました。兵士達は重い丸太を積みあげるために奮闘していました。そのかたわらで、上官づらをした伍長が命令を与えています。「持ち上げろ! さあ、全員一緒に!」と大声で叫ぶと、兵士達は一斉に力をふり絞って押しましたが、その丸太は重すぎて、山と積まれた丸太の一番上に届きそうに思えた時に、すべって転がり落ちてしまうのでした。伍長はもう一度叫びました。「さあ持ち上げろ! どうしたんだ? 持ち上げろ、と言っているだろう!」
 兵士達はもう一度、懸命に持ちあげようとしましたが、もう少しで上に届きそうになったところで、丸太はすべり、またしても転がり落ちてしまったのでした。
「力をこめて持ちあげろ!」と伍長が叫びました。「さあ、全員一斉に上げるんだ!」 また懸命にやってみました。そして、三度目に丸太が転がり落ちそうになった時、ワシントンは大急ぎで駆け寄り、全身の力をふりしぼって丸太を押しました。すると、丸太は胸壁の一番上にうまく転がり込んで収まったのです。汗びっしょりの兵士達が、あえぎながらもしきりに礼を言い始めると、ワシントンは伍長の方を向いて言いました。
 「君の部下達がこの重い丸太を持ち上げるのを、なぜ手伝わないのか?」 ワシントンが尋ねると「何だと?」と伍長は言い返しました。「私は伍長だぞ。おまえにはわからんのか?」 「無論わかっている!」 そう答えると、ワシントンは、外套をパッと開き、その軍服を見せたのでした。「私はただの司令官にすぎない! 今度、丸太が重くて君の部下達に持ちあげられないようなら、私を呼んでくれたまえ!」

2月


22日
高浜虚子(たかはま きょし)本名 清

(1874〜1959)

大正・昭和期の俳人。

愛媛県松山生まれました。彼は、男ばかり五人兄弟の末っ子として愛情を一身に受けて育ちました。彼の家と背中合わせに正岡子規の家があったということです。彼は、幼い時は虚弱で運動が苦手でしたが、中学時代は「聖人」とあだ名がつくほど勉強熱心でした。

しかし、17歳の時、同級生(後の河東碧梧桐)の紹介で正岡子規と出会い、文学にのめりこんでゆき、成績は下降の一途を辿ってしまいます。第二高等学校在学中、俳句革新運動の開始を知り、中退して上京します。

そんな頃、敬愛する、子規が大喀血をし入院してしまいます。彼は、二月以上もの間献身的な看病を続け、子規は、そんな、彼に自分の志をついで俳句の復興に力を尽くしてもらいたいと願っていました。

そして、明治35年に子規が亡くなったあと、彼は子規の仕事を受けついで、子規のはじめた俳句雑誌「ホトトギス」を主催し、子規の写生説を基底に「花鳥諷詠」説を唱道し「ホトトギス」全盛時代を築いたのです。

子規は俳句を近代文学として再生させましたが、彼は俳句をより多くの人に親しませたといえます。彼は、俳句のほかに写生文や小説の筆もとり、自伝「俳諧師」をあらわしました。
彼は、弟子の才能を引き出し育てる指導力にもすぐれており。彼の主催した「ホトトギス」からは水原秋桜子、山口誓子、中村草田男、中村汀女らの俳人が多く誕生しています。

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