2月


20日
志賀直哉(1883〜1971)小説家

宮城県石巻で銀行に勤務していた父の次男として生まれましたが、翌々年一家で東京の祖父母の元に移り、父は実業界に転じました。直哉は夭折した兄に代わり、跡取として祖母に溺愛されて育ちました。

学習院の初等科に入学し中等科に進む直前、母が亡くなりましたが、その年の内に父は再婚しています。この頃から、父との確執がはじまりました。

翌年、有島生馬らと、回覧雑誌を作り、創作を始めますが、4年進級時に最初の落第をします。そのころ、内村鑑三の教会に通い、虚偽不正を憎む倫理観をもつようになりました。そして、仲間と足尾銅山の鉱毒事件被害地を視察することになりますが、父に反対され、不和の原因となりました(足尾銅山には祖父が関係していたのです)。

又、再度落第したのですが、そのため武者小路実篤らと同級生になることができました。その後、学習院から東大に進みましたが中退。1910年、武者小路実篤らと「白樺」を発刊し、その創刊号に「網走まで」を発表して、文学的スタートを切りました。これらの文学活動、女中との結婚問題等、益々父親との仲が険悪になってゆき、尾道に移ります。

翌年最初の短編集「留女」(るめ・祖母の名前であった)が刊行され、評価されましたが、夜、友人の里見囀と線路脇を散歩中に山手線にはねられ重傷を負い、城之崎で療養、松江、京都と転々とした後、武者小路実篤の従妹、康子と結婚する。またもや、父に反対されるが、我孫子に家を建てて住みました。

この間、創作が途絶えましたが「城之崎にて」(療養中の体験を元にして書いた)を3年ぶりに発表。出世作になった「大津順吉」(父との不和をそのまま小説にした)を発表。その後15年を超える父との確執が解消した時に書かれたのが「和解」です。1937年彼の代表作「暗夜行路」を発表しました。これは十数年かかって完成された長編で、精神的自伝でもあり、日本近代文学の傑作といわれています。

彼の作品は、強い自我意識と自由な生活人のモラルを簡潔明瞭な文体で的確に描いており「小説の神様」と呼ばれています。

1949年文化勲章受章。1971年老衰のため88歳で亡くなりました。
志賀直哉の作品は、あまり複雑な筋はなく。伏線は殆ど皆無で、設定は読者の想像力に任せた抽象的なものが多い。小説としてみた時、多くの穴があるのですが、それをカバーしてあまりある才能が、小林秀雄も指摘した「見ようとしない処を、覚えようともしないでまざまざと覚えてい」る眼なのです。
ちなみにかつて漱石に芥川が「志賀さんの文章というのは、どうしたら書けるようになるものでしょうね」と相談しに行ったところ、漱石が苦笑して「ああいう文章は私にだって書けないよ。志賀は考えてああいうものを書いてるんじゃない。なにも考えずに書くからああいうものになるんだ」と言われています。
和辻哲郎も、一緒に旅行した時のことを後になってもまざまざと覚えて描写する志賀の才能を目の当たりにして「俺にはこんなことはできない。俺は作家にはなれない」と早々に進路変更した人の一人だそうです。
志賀家は相馬藩で代々普請奉行をつとめた家格で、祖父の直道、父の直温ともに戊申戦争で官軍と戦っている。維新後、祖父は没落した相馬家の立てなおしのために家令を引きうけ、古河市兵衛とはかって銅山経営に乗りだし、成功させるが、自分は清貧を通した。当主の没後、お家騒動に巻きこまれ、毒殺の嫌疑で逮捕されるが、75日後に釈放される。いわゆる「相馬事件」で、新派の芝居になるほどのスキャンダルだった。
 実業界に転じた父は総武鉄道、帝国生命保険などの大企業の取締役をつとめ、志賀を学習院初等科に入学させた。
白樺派とは
主に学習院出身者で構成された文学グループ。特殊な階層の特殊な人間が集まり、理想主義・人道主義を基本理念にそれぞれ好きなことを好きなように書いていた。不幸でなくては文学はやれない、とでもいいたげにどんどん不幸街道を突き進む他グループと異なり、割と幸福な人生を歩んだ人間が多いのも特徴。
当時若干の揶揄と憧れを込めて「お伽の国から抜け出たような王子たちの集り」と評されていたそうである。主な主催者は志賀の他に武者小路実篤、有島三兄弟など。
城之崎にて

事故の後遺症で背中を痛めた「私」は、温泉療養のために城崎温泉を訪れる。その静かな温泉町で、主人公は、蜂やねずみ、いもりなど、小動物の死を次々と目撃します。散策の途中で気付いた風もないのに動く樹の葉の動きなどから思索し、生き物の寂しさを感じ、生きていることと死んでしまっていることとに、それほど差がないような気分にひたるのでした。

内村鑑三1861〜1930 評論家
 キリスト教無教会主義の創始者。高崎の人。札幌農学校卒。雑誌「聖書之研究」
 を創刊し、講演、著述等による伝道を行なって、当時の青年層に大きな感化を
 与えた。主著「予は如何して基督信徒となりし乎」「キリスト信徒の慰め」。

武者小路実篤 1885〜1976小説家。東京出身。
 「白樺」を創刊し、その代表的作家として活躍。トルストイの影響を受け、人
 道主義を提唱。「新しき村」を創設。代表作「お目出たき人」「その妹」「友
 情」「愛欲」「真理先生」など。

有島武郎 1878〜1923小説家。生馬、囀の兄。
 「白樺」同人。晩年は社会主義とブルジョア作家である自己との矛盾に悩み、
 財産放棄などを行なった末、愛人と情死。著書に「宣言」「カインの末裔」
 「或る女」「生れ出づる悩み」「惜しみなく愛は奪ふ」など。

有島生馬 1882〜1974洋画家。小説家。武郎の弟、囀の兄。
 「白樺」同人。二科会、のち、一水会の創立に参加。

里見囀(とん)1888〜1983小説家。武郎・生馬の弟。
 神奈川県横浜市出身。東京帝大英文科中退。はじめ「白樺」に参加したが、
 次第に離れ大正八年久米正雄らと「人間」を創刊。技巧の妙をつくした作品
 を多く発表し、「まごころ哲学」を唱えた。代表作に「善心悪心」「多情仏
 心」「安城家の兄弟」。

2月


20日
石川啄木(いしかわ たくぼく)

(1886〜1912)

明治時代末期の詩人・歌人

岩手県玉山村の常光寺という寺に生まれました。父、一禎は曹洞宗の僧侶で、常光寺の住職でした。彼が2歳のとき父は常光寺から、渋民村の宝徳寺に移り、この渋民村が、彼のの故郷になります。渋民村での生活は、自然は美しく、両親の愛情は深く、彼はこの地で、幸福な少年時代を過ごしました。

その後、盛岡中学に進んで盛岡市に下宿しましたが、ここで、上級生の金田一京助と知り合い、彼から詩歌雑誌の「明星」を借りて読むようになり、与謝野晶子の歌集「みだれ髪」によって近代詩歌に目を開いていくようになります。

上級に進むにつれて文学に熱中し、歌を作るようになり、地元の岩手日報に短歌を発表し、天才少年ぶりを発揮します。その後、「明星」に啄木の歌が載るようになり、中学を中退して文学で身を立てようと上京しましたが、東京の生活は苦しく、病気になってしまい、父に連れ戻されてしまいます。

その後も、詩を書きつづけていましたが、父が宗費滞納のために住職をやめさせられ、彼が一家を支えなければならなくなり、代用教員となりますが、ストライキを指導したために、一年で免職となります。次に、北海道にわたり、函館で代用教員や地元紙の記者となって、ようやく、家族を呼び寄せたのですが、不幸にも大火にあって、職を失ってしまいます。

ふたたび東京へ出た彼は、金田一京助の世話になり、周囲の人からの、借金を重ねながらも、ようやく、両親や妻を読んでともに暮らすことができたのでした。

明治44年に第一歌集「一握の砂」を出版。三行わかち書きの趣好は歌壇に新風を巻き起こします。病が悪化する中、第二歌集「悲しき玩具」の出版の準備がすすみましたが、明治45年、3月に母が肺結核で亡くなり、それを追う様に、4月13日に、彼も同じ病気で亡くなります。26歳でした。
実際の啄木は知人に借金をしたおし、女と遊び、嘘ばかりつくわがまま気ままな人間だったそうで、亡くなった時には、現在のお金に換算すると2千万円に上る借金を残していたといいます。
中学時代の先輩にあたる金田一京助を頼って上京したのですが、彼にも借金をしまくったそうで、金田一の家族にとっては啄木は疫病神みたいな存在で、金田一の妻が夫から言いつかって啄木家に金を届けるのと、何と啄木は芸者を上げて騒いでいたことすらあったといわれています。

     「働けど、働けど、
      我が暮らし楽にならざり
      ぢっと手を見る 」
                    
東京に出てきたときも、彼は、新聞社から、30数円という当時としては恵まれた給料をもらっていたのですが、娼館に通うなどの浪費生活を送っていたため、常にお金に困窮していたそうです。そして、金田一が援助をしても、そのお金を、借金の返済や家族への送金にあてず、豪勢な食事をし、遊廓へ通って酒を飲んで使い切ってしまったそうです。
また、啄木は初恋の人節子と結婚していますが、釧路時代からろくに働かず芸者遊びにうつつをぬかし、おまけに入れあげた芸者のことを短歌にまで書くしまつ。啄木の人気が、生きている間に出なかったのもわかるような気がします。金田一氏はともかく、その家族は啄木が没後、次第にもてはやされるのが不服でならなかったそうです。

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