2月


18日
アーネスト・フランシスコ・フェロノサ(1853〜1908)男性 アメリカ 美術史学者、哲学者、東洋研究家

マサチューセッツ州に音楽家の両親の子として生まれました。学生時代をハーバード大学、大学院で過ごし、スペンサーやヘーゲル哲学を学び、他、美術史も聴講しました、その後、ボストン美術館に新設された絵画学校へ通いますが、モースの誘いによ
り、東京大学文学部の教授の道を決意します。1878年(明治11年)日本政府に招かれ、哲学、経済学、美学等を講義しました。

やがて日本美術の保存、研究を説いて、伝統的な、日本画の復興を力説しました。又、美術品を保護し収蔵する施設が無いことを痛感し帝国博物館の設立を訴えました。当時の日本は西欧文明のすばらしさに触れ、自らの文化を低く評価していたのです。橋本雅邦、狩野芳崖らを育て、援助し、新日本画運動を起こし、岡倉天心と協力し、東京美術大学(今の東京芸大)の創立に尽くします。1889年開校後、審美学、美術史を講義しました。又、講演活動、募集活動、政府役人として美術調査活動を精力的
に行いました。

帰国後、ボストン美術館東洋部長となり、日本美術の紹介に努めた、再び来日し、東京高等師範学校講師もつとめています。1900年帰国し、以後、各地を講演中ロンドンにて急死しました。

遺言により、風光をこよなく愛した法明院(滋賀県、琵琶湖の眺めがすばらしい)に葬られました。そこには、生前愛用した天体望遠鏡、地球儀などが保存されています。ここで彼は、仏教の教えを請い受戒しています。又、奈良の法隆寺にある「救世観音」
聖徳太子の化身の封印を1400年ぶりに解いたのも彼でした。

著書に「東亜美術史綱」「美術真説」「浮世絵の歴史」等がある。
フェノロサが、東京大学の同僚であった岡倉天心と法隆寺を訪れたのは1894年でした。目的は、法隆寺内の建造物「夢殿」に伝わる仏像の確認でした。その仏像は約800年間(鎌倉時代より)、誰の目にも触れることはありませんでした。布によって何重にもまかれ、夢殿に密かに封印されていたからです。仏像の名前は「救世観音(くせかんのん)」、法隆寺を建立した聖徳太子自身の等身の秘仏です。その封印を解こうものなら、その祟りは計り知れないと法隆寺の僧たちはだれもが信じていました。したがって、フェノロサと岡倉天心が夢殿に押し問答の末、足を踏み入れた時、祟りに恐れをなして法隆寺の僧たちはその場を逃げ出したと伝えられています。美術取調官として、強引なまでに行なった「夢殿」調査で、1.400年の時間を旅した聖徳太子の化身のその封印が解かれ、「救世観音(くせかんのん)」のアルカイック・スマイルが現われたのです。封印が解かれて約110年がたった現在、多くの人々が法隆寺を訪れ、幸運にもその姿に接することができるのは、実はフェノロサのおかげだったのです。
橋本雅邦(はしもとがほう)1835〜1908
 日本画家。江戸の人。名は長卿。初め狩野雅信に学ぶ。号、勝園雅邦。岡倉天心、フェノロサとともに明治の新日本画創造のために活躍。東京美術学校、日本美術院 創立に尽くす。代表作「竜虎図屏風」「白雲紅葉図」。

狩野芳崖(かのうほうがい)1828〜1888
 日本画家。山口県の人。狩野雅信に師事。岡倉天心、橋本雅邦らとともに日本画の近代化を推進。

岡倉天心 1862〜1913
 美術評論家。本名覚三。フェノロサに師事。東京美術学校の創設につとめ校長とな る。のち横山大観、下村観山らと日本美術院を創立。国粋美術の興隆に指導的役割を果たす。著「東洋の理想」「茶の本」。

モース  1838〜1925
 アメリカの動物学者、考古学者。日本の考古学の基礎をつくった。明治一〇年、東京大学理学部動物学教授として来日、大森貝塚を発掘。同一二年報告書「大森介墟古物篇」を出版。

救世観音(くせかんのん)(正式には救世観世音菩薩)
 法華経普門品に、「観音の妙智の力はよく世間の苦を救う」とあるところから、観世音菩薩をたたえた呼び名。ことに日本では聖徳太子の本地仏として尊崇された。 救世観音。救世菩薩。(「くせ」は「くぜ」「ぐせ」「ぐぜ」とも)

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