2月


17日
シーボルト(1796〜1866)ドイツ医師

ドイツのフランケン地方の首都、ヴュルツブルク市に生まれました。祖父と父は高名な医学教授(産婦人科)というドイツ医学界の名門の家で、彼の一族が活躍するヴュルツブルク大学は「シーボルト学校」とまで言われていました。

彼はそのヴュツブルク大学に入学すると、医学をはじめ、植物学、動物学、人文地理学、人種学などを学び、卒業後、1822年にオランダ領東インド陸軍病院の外科少佐となり、翌年の4月にジャワ島に赴任しました。直後、日本(長崎出島)駐在の医者として、また日本研究の目的を持って来日、1823年8月長崎に着きました(志願したともいわれている)。

彼は日蘭貿易再興のため、日本についての調査研究を精力的に行ないました。研究は全国から洋学を学びにきた、学者達の協力を得ながら、政治・経済・歴史・地理・文化・自然など広範囲にわたって進められました。彼は帰国後、日本での研究の成果をまとめ、通称「日本」と呼ばれる記録集を出版しています。これは当時の日本の国家制度や日常生活の様子を知る上で、今や日本にとっても貴重な資料となっています。

彼は調査や医者としての仕事のかたわら、志に燃える青年たちを相手に鳴滝塾でオランダ語や医学についての講義を行い、日本の洋学の発展に大きく貢献しました。1828年秋、彼は任期を終え帰国の手はずを整えていました。しかし、彼の積み荷の中から日本地図など国外持ち出し禁制の品が発見され、二宮敬作などシーボルトに関係する人たちが投獄されてしまいました(シーボルト事件)。

彼は幕府の取り調べの後、帰国命令を受け、約1年後の1829年12月30日に長崎から出国します。このとき、弟子の高良斉(こうりょうさい)と二宮敬作は漁師に変装し小舟に乗って船上のシーボルトを見送ったといわれています。

来日中、彼は出島に遊女として出入りしていた滝と知り合い結婚、女の子(稲)が生まれています(彼女は父の弟子から医学を学び、日本初の女医になっています)。しかし、その後滝は再婚、シーボルトは45才頃再婚しています。帰国後、日本に関する著書を次々に出版し、ヨーロッパに日本を紹介しました。30年後の1859年、63歳になったシーボルトは長男アレキサンデル(オランダ妻との子)を伴って再び日本を訪れています。貿易会社の仕事での来日でしたが、仕事は不調で結局その時点で会社を辞めてしまいました。その後、幕府の顧問として江戸に赴き、1862年まで滞在しています。

オランダへ戻ったシーボルトは公職を辞し、妻子を連れて生まれ故郷であるドイツのヴュルツブルク市へ戻りました。彼は1866年10月18日、「美しき平和な国に行く」(日本の事)と言い残して70歳でこの世を去りました。

著書「日本」「日本植物誌」「日本動物誌」等
1823年オランダ政府よりの命令で日本調査の為に来日。ドイツ人だったシーボルトは、なまりが強い事を聞かれるとドイツ人という事を隠して「山オランダ人」だと言っていたそうです。
シーボルトが生まれて200年経った現在、シーボルトゆかりの大洲市、保内町、宇和町ではそれぞれ彼の故郷ヴュルツブルク市とそして子孫であるブランデンシュタイン=ツェッペリン家と交流が進んでいます。とくに宇和町では、1996年夏、シーボルト生誕200年記念展の開催に併せて、シーボルトとイネの子孫が一堂に会しての「シーボルト、イネ顕彰サミット」を実施しています。
現在、「シーボルト」の名は子孫の間では残っていません。シーボルトの次女がブランデンシュタイン家に嫁ぎ、その息子が、飛行船建造で有名なツェッペリン伯爵の娘と結婚したため両方の家名を継いでいます。シーボルト家の遺産を受け継いでいるのは、現在このブランデンシュタイン=ツェッペリン家のみとなりました。
1904年のこの日、 プッチーニ作曲の歌劇『蝶々夫人』がミラノで初演されました。

2月


17日
島崎藤村(しまざき とうそん)(本名 春樹)

1872〜1943

詩人・小説家

長野県、馬籠宿の本陣、問屋、庄屋を兼ねる旧家に生まれました。島崎家はずっと馬籠塾の本陣をつとめていた庄屋でしたが、明治維新の変動で没落してしまいます。

彼は9歳のときに父と長兄のはからいで、勉学のためにすぐ上の兄とともに東京に出て、勉強を続け、明治学院を卒業後、明治女学校の先生となって「女学雑誌」に小説を書き始めました。

そして、北村透谷らと「文学界」を創刊し、「文学によって人間の魂をきづきあげよう」という透谷の考えに大きく影響を受けるようになります。しかし、彼は教え子を愛したことから辞職を余儀なくされます。教え子との実らぬ恋に苦悩し、10ヶ月近く、漂白の旅を続けています。その後、復職しましたが、その直後、北村の自殺にあいます。

24歳のときに、東北学院の先生になって仙台に移り、透谷の志をついでさかんに詩を作り、その詩は「若菜集」として出版されました。これは明治の新体詩の初めを告げる記念塔と呼ばれています。

東京に帰った彼は、「一葉集」「落梅集」などの詩集を出し、長野県の小諸に住んで「千曲川旅情の歌」を作りました。そして、1905年、小説「破壊」を完成した彼は、小説で身を立てる覚悟で上京します。しかし、生活は苦しく、翌年、妻の実家から借りたお金で自費出版し、高い評価を受けましたが、困窮のために、三人の娘をあいついで亡くしてしまいます。

その悲しみの中、彼は、1908年「家」「新生」をはじめ多くの傑作をあらわし、小説家としての地歩を固めますが、そんなとき、今度は妻が急死してしまいます。その後、フランスへ留学、1916年、帰朝後、早大と慶大でフランス文学を教えました。そして、1928年に加藤静子と再婚し、「夜明け前」の大作を完成しました。他にすぐれた文明批評や随筆、旅行記、児童文学がたくさんあります。
彼の父の正樹は、異母妹と近親相姦の関係となっています。また、彼もまた、妻が急死したあと、子供の世話のために姪二人を住みこませたとき、妹の方と関係してしまい妊娠させてしまいます。彼は、非常に苦悩し、フランス留学を口実に日本を逃げだしています。その後、日本に戻った彼は、姪との近親相姦を題材にした小説「新生」を発表しています。

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