2月


16日
大隈重信(1838〜1922)明治大正時代の政治家

肥前国佐賀会所小路に、佐賀藩砲術長の父信保、母三井子の長男として生まれました。おおらかな母の影響で、いつも家には友達が集まり、にぎやかだったといいます。

1864年藩の役人として長崎に赴き、仕事に励みながら英語を学び、翌年長崎に英語学校致遠館を設立しその経営にあたりました。1867年3月、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告しようとして副島種臣とともに脱藩上洛しましたが、捕らえられて佐賀に送還されました。

明治新政府には重く用いられ、大蔵大輔(今の大蔵次官)と民部大輔になり、鉄道や電信を作ることに務めます。自由民権運動が起こると、政府と対立、立憲改進党を組織し、憲法発布、国会開設を迫ります。

明治21年、伊藤博文内閣の外務大臣となり、条約改正に努めましたが、翌年、馬に乗っているところを国粋主義者に爆弾を投げられて右足を失ってしまいました。その後、明治31年板垣退助と日本最初の政党内閣を結成し首相になりましたが、四ヶ月で倒れました。

彼は、政治家であると同時に、広く明治文明の推進者としても功績があり、1882年東京専門学校(今の早稲田大学)を創設。青年好きな重信はいつも「学生はみな自分の子供だ」と言って終生教育事業に力を尽くし、又、国書刊行会、大日本文明協会等も設立しました。
生家の一帯は会所小路と呼ばれる武家屋敷街で、大隈重信旧宅は、敷地約315坪、建坪約45坪の佐賀地方に多い「コ」の字形をしたかぎ屋の一部平屋、一部2階造りの家で、2階は重信の勉強のために母親が建て増したものといわれています。平屋藁葺き、一部2階建瓦葺きの家屋は、武家屋敷の面影を残す貴重なもので、国の史跡に指定されています。隣接して立つ銅像は、第1次大隈内閣組閣時の姿で、原型は大隈講堂の回廊にあります。

2月


16日
荻生徂徠(おぎゅうそらい)

1666〜1728

江戸時代中期の儒者

徳川綱吉に仕える医師方庵の二男として江戸二番町に生まれました。本姓は物部、略して物。名は双松(なべまつ)。通称は惣右衛門。字は茂卿(しげのり)。中国にあこがれて、中国風に物徂徠(ぶつそらい)とも言いました。

彼が14歳の時、上総本納村に流罪となり、江戸にもどるまでの11年間をこの地で住ごしています。この間、生活は貧しかったのですが、苦学を続け、その後江戸へ出て、初めて朱子学を勉強しました。

努力のかいあって、優れた学者になって、塾を開きましたが「論語」や「孟子」などの中国の古典を正しく知るためには、そのころの言語をよく知らなくてはいけないと、古代語重視の立場に立ち、古文辞学派とよばれました。

柳沢吉保に見出されて幕府に仕え、徳川吉宗の内命によって「太平策」「政談」を著し、時弊救済策を述べ、将軍の政治上の相談役を勤めました。柳沢失脚後、職を辞し学問に専念しました。

門人に経済理論の太宰春台、詩文の服部南郭らをを輩出し、またその文献学的方法態度は、国学に影響を与えました。
彼は、赤穂浪士の乱の時に、浪士たちの処置をめぐり、柳沢吉保に、意見を求められ「擬自律書」と題する意見書を提出し、切腹を上申しています。

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