2月


15日
和井内貞行(わいない さだゆき)

(1858〜1922)

魚の影すら見えない死の湖を、豊かな湖に変えた“十和田湖開発の父”

現在の秋田県鹿角市毛馬内に、旧南部藩士、治郎右衛門の長男として生まれました。明治14年、小坂鉱山に赴任し、十和田湖畔に住むようになりました。その時、十和田湖は魚の影すら見えない死の湖で、鉱山の人たちの食事も全て干物か塩漬けだったのです。そこで、彼は新鮮な魚を何とかして提供できないものかと考えたのでした。

当時、十和田湖は魚が生息しない湖といわれ、土地の人たちは、湖の主の力だと信じていたのです。しかし彼は周囲の反対を押し切って湖での養殖を決意し、明治17年からコイ、フナ、イワナ、日光マスの放流を始めたのでした。

しかしコイやフナは、水温や水質が合わず、順調に育っても群れる習性のない鯉の捕獲は困難を極め、最初の試みは失敗に終ってしまいました。その次に放流したイワナや日光マスは、稚魚が落差の大きい銚子大滝にはばまれ、十和田湖に帰ることが出来なかったのです。

彼の試みは何度も失敗し、財産も無くなり苦難の日々が続きました。しかし、その頃彼は北海道支笏湖で養殖されているヒメマスのことを知ります。そして、全財産をはたいてヒメマスの卵5万粒を購入し、卵の黄身を餌に孵化させ、5センチほどに成長した稚魚5万匹を放流したのです。

そして2年半後の秋。ついに十和田湖にヒメマスが産卵のため大挙して浅瀬に押し寄せたのでした。養魚を志して22年、彼の長年の努力がついに実ったのです。

彼は、その後十和田湖孵化場を創設し、本格的なヒメマスの養殖を始めるとともに、孵化場近くに旅館「観湖楼」を建てて、観光客の誘致を図り、大正10年には十和田湖の国立公園編入運動を進めましたが、翌年に亡くなっています。まさに一生を十和田湖の開発にささげたといえるでしょう。
彼の生涯は、昭和25年の大映映画「われ幻の魚を見たり」で紹介され、彼の業績は今でも語り継がれているそうです。そして彼とその妻カツ子の二人は、今、十和田湖畔の大川岱にある和井内神社に祀られているということです。


2月


15日
ガリレオ・ガリレイ(1564〜1642)イタリア、天文・物理学者

貧しい貴族の子(父親は音楽家・数学家であった)として、ピサに生まれました。フィレンツェ近郊の修道院で学び、17歳の時ピサ大学に入り医学を、19歳でユークリッド幾何学を学びました。

在学中、礼拝堂のランプが揺れるのを見て、振り子の等時性(大きく揺れる時も小さく揺れる時も同じ時間である)を自分の脈拍を使い発見し定式化しました。その後、数学の勉強に打ち込み25歳でピサの大学の講師となり、落体の法則(物体の落下速度は物体の重さに比例するものではない)をピサの斜塔で実験し発見しました。

アリストテレスの学説の誤りをこの実験により証明、そのためスコラ派学者らと対立、2年後に辞職しています。

1592年ヴェネチア共和国のバドヴァ大学の数学教授に着任、以後18年間在職し、彼の著名な業績の殆どは、この時期に生まれます。1604年、超新星爆発(星の一生で最後に大爆発を起こすことによって、とても明るく輝きだす現象)から、神学者と対決、天体観測用望遠鏡を製作して、月の表面を観測、クレーターや山、海を発見し、影の長さから月の山の高さまで推定しています。

1610年30倍の望遠鏡を作り木星に4つの衛星があることを発見(ガリレオ衛星)これは、地球中心説に反します、又、太陽の黒点、土星の輪(輪であることは、わからなかったが)、金星の満ち欠け、天の川が星の集まりであることなどを発見。コペルニクスの「地球は宇宙の中心ではなく、太陽が中心で、地球は毎日自転しながら太陽の周りを回っている」という地動説の正しいことを説き、1616年宗教裁判にかけられ、ローマ法王から、人を惑わし神を汚す者として罰を受けましたが「それでも地球は動く」とつぶやきつつも、地動説放棄を誓わせられました。

1632年「天文学対話」を著しましたが、再び宗教裁判にかけられました。そして著作は禁書となり、フィレンツェ郊外で監視対象の余生を送ることになりました。1636年「新科学対話」を完成させたましが、長年の天文観測のせいで、1638年両眼を失明してしまいます。

1642年弟子のトリチェリらに見守られながら亡くなります。死後、公的な葬儀も、墓を立てることも許されませんでした。
ガリレオ18才、ピサ大学に入った最初の年のことです。ピサ寺院に礼拝 していたガリレオがふと見上げると、寺院の天井からぶら下がっているシャ ンデリアが風にゆらゆら揺れている様子が目に止まりました。しばらく見 ているうちに「揺れが 一往復するのにかかる時間は、揺れの大きさに関わ らず、同じである」ことに気が付きました。このとき、時間の基準として 自分の脈拍を使ったと言われています。さっそく家に帰り、同じ振り子を 2つ使って実験してみました。一方を小さく、もう一方を大きく振ると、 はたして「一往復するのにかかる時間は二つとも同じである」ことが確認 できました。これは「振り子の等時性」と呼ばれる法則で、ガリレオの行 った最初の大発見でした。
上記の話はガリレオの弟子のヴィヴィアーニの「ガリレオ伝記」に基づいていますが、真実とはいえないようです。大聖堂にあるランプは、1587年にとりつけられたもので、しかも鉄の棒で支えてあり揺れることはなく。ガリレオが振り子の等時性を発見したのは事実ですが、それはどうやらもっと後のことのようです。
ガリレオは自らの学問の先達としてコペルニクスを深く尊敬して いました。同じ地動説を唱えたにも関わらず、何故ガリレオだけが宗教裁判 に掛けられたのでしょうかか。実際、 1533年、僧侶でもあったコペルニクスはローマ法王クレメント7世の前 で地動説を講義して褒められ、1536年には公式の公表要請を受けたほど でした。しかし、地動説の革命的意義をよく知っていたコペルニクスは慎重 にふるまい、親しい友人以外には公表しませんでした。地動説の書かれた著 書「天体の回転について」の最初の校正刷りが手元に届いたとき、彼はすで に死の床にありました。コペルニクスやガリレオの生きた15〜16世紀は、 正に科学が教会の保護のもとから独立して、新たな時代のリーダーとなろ うとしていたときでです。そのような不確実な時代にありながら、ガリレオ は自らの学問に正直過ぎたのかも知れません。
ガリレオの死後約三百五十年ほど過ぎてカトリック教会側は、公式に「天動説」の誤りを認めてガリレオと和解しましたが、それはもはや「天動説」など誰も信じなくなって久しい現代になってからのことでした。
1946年のこの日、世界最初の真空管電子計算機、「エニアック」の完成式が行われました。

2月


15日
井伏鱒二いぶせますじ)

1898〜1993

「戦争はいやだ。勝敗はどちらでもいい。早くすみさえすればいい。いわゆる正義の戦争よりも、不正義の平和の方がいい」

昭和期の作家

広島県深安郡加茂村(福山市)に、豪農の次男として生まれました。小さいときは体が弱くて、小学校のときは夏になると瀬戸内海の海で療養をしていました。福山中学卒業の後は、画家を志して京都の橋本関雪の門に入ろうとしましたが、文学に志望をかえて東京に出て早稲田大学に入りました。その後大学を中退して。昭和3年、早大で同級の親友青木南八の急死を動機に、「鯉」を「三田文学」に発表。

そして、同人雑誌「世紀」に参加して、肥大して岩屋に幽閉された山椒魚の狼狽と悲哀を描いた短編「山椒魚」を発表、ついで、同人雑誌「文芸都市」に「屋根の上のサワン」を発表して、作家として認められるようになりました。

その後も「さざなみ軍記」「仕事部屋」「集金旅行」などを、次々に発表し、昭和13年には「ジョン万次郎漂流記」で直木賞を受賞しました。
彼の、ユーモラスでユニークな作風は多くの人に支持され、多くの作品を書きました。「ドリトル先生もの」など児童文学の翻訳も行っています。

戦後は、原爆投下直後の悲惨な状況のみならず、その後の平穏な日常をも脅かす原爆の恐ろしさを書いた「黒い雨」等の作品を残しています。随筆も書きましたが、作者の人柄がよくあらわれており、多くの人に愛読されています。また、彼の詩にも独特の味わいがあります。

平成5年7月10日に亡くなりました。95歳でした。毎年、彼の命日には「鱒二忌」も開かれています。
1930年ごろから、太宰治が彼に師事するようになり、彼は、太宰治が死にいたるまで面倒をみつづけ、1947年に彼が心中によって亡くなった時も、葬儀委員長をつとめています。

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