2月


14日
豊田佐吉(1867〜1930)織機の発明家、実業家

明治維新が間近に迫った慶応3年(1867年)現在の静岡県、湖西市山口に農業と大工をしていた父の長男として生まれました。小学校を卒業すると父・伊吉の大工仕事を手伝っていましたが、貧困にあえぐ村の暮らしを見て「郷里の貧乏を救わなければならない」という郷土愛に燃えるようになり、そして、学問の必要性を痛感し、東京からわざわざ新聞を取り寄せたり、村の同志を集めて「夜学会」を開いたりしました。

当時の日本が郷里と同様に貧乏であることが分かり、「発明」によって、日本の産業を発展させ、日本を裕福な国にしようと考えたのです。しかし、一体何を発明したらいいかは容易に定まりませんでした。そんなとき目についたのが、母の機を織る姿でした。佐吉はこの手機(てばた)の改良を志し、寝食を忘れて研究・工夫に熱中しました。しかし、織機に関しての知識もなく、周囲の理解も得られない佐吉にとって、この研究は困難を極めました。それでも佐吉は決してあきらめず、発明に精進しました。「機ばっかりいじっておかしなやつだ、男のくせに」と笑われましたが、母の励まし、慰めにより続けられ「今にきっと成功して見せます、しばらくお許し下さい」と心の中で深く両親に詫びていたといわれています。

そして、24歳の時、ついに最初の発明「豊田式木製人力織機」を完成させたのです(従来の40〜50%増産ができた)。完成の日、黒山の人だかりの中で、佐吉の織機を使って、りっぱに布を織って見せたのは、彼の母でした。

この「豊田式木製人力織機」で初めての特許を取り、その後も佐吉は研究を続け、3年後には「かせくり機」を、次いで木鋳混製動力織機を発明するなど、その発明は生涯を通じて119件にものぼりました。明治39年名古屋に豊田織機株式会社を設立。また、佐吉は、終生の目標であった海外にも目を向け、明治43年(1910年)には初めて欧米に渡り、その広大な国土、機械を使った効率的な農業、工場の設備の巨大さ、機械の精巧さに驚きました。しかし、織機・紡績工場を見学してみて、自分の発明した織機が必ずしも世界の一級品に劣るものではないという結論を得ました。

大正10年には中国上海に「豊田紡織廠」を設立、昭和3年にはインドへ工場設備を輸出、翌4年にはイギリスのプラット・ブラザーズ社へ国産技術を輸出しました。ついに佐吉の自動織機は世界に認められたのです。

昭和6年、高血圧と急性肺炎のため、63歳で生涯を閉じました。事業は、息子の喜一郎に受け継がれ、自動車をはじめとする日本の産業の著しい発展の礎となりました。
明治三十八年は、そのころ、わが国で使われていた外国製の自動織機と、佐吉の自動織機と、どちらがすぐれているかを試すことになった。いわば、日本と外国との腕比べである。英国製のものを五十台、米国製のものを十台、佐吉のものを五十台すえつけて、一年にわたる厳しい比較試験が行われた。だが、その結果は、惜しいことに佐吉の負けであった。かれは、愛機敗因を根気よく調べ、更に新しい工夫をこらして行った。
それから四年め、再び外国製のものと腕比べをする日が来た。努力はついに報いられた。何千本というたて糸のうち、一本でも切れると織機はおのづから止り、よこ糸がなくなれば、新しい杼が代わってとび出して行くなど、まことに簡にして巧みなものであった。機械の取り扱いがたやすく、故障が少なく、絶えず正確に動くことにおいて、佐吉のものに及ぶものはなかった。
押しも押されない「世界一の織機」という光栄が、かれの上にかがやいた。この自動織機の出現によって、綿布工業国として、世界に乗り出すようになった。
佐吉は研究に没頭する あまり日にちの感覚をも忘れてしまったという。ある日のこと、図面を片手に佐吉が工場に飛び込んで きたという。朝9時にも関わらず工場には誰もいない。「おい、誰もおらんのか」と家人に尋ねると今日 は元日だと言われた。それほど熱心に研究を重ねていたらしい。








今日はバレンタイン(色々説があるそうですが、その一つを紹介します)

バレンタイン・デーは、英語では「Saint Valentine’s Day」、訳せば「聖バレンタインの日」という意味です。バレンタインは、どんな人だったかというと。西暦3世紀のローマでは。皇帝クラウディウス二世(在位268−270)は、若者たちがなかなか戦争に出たがらないので、手を焼いていました。その理由は彼らが自分の家族や愛する者たちを去りたくないからだと確信するようになったクラウディウスは、ついに結婚を禁止してしまいました。
ところが、インテラムナ(イタリア中部にある町で、現在のテラモ)のキリスト教司祭であるバレンチノ(英語読みではバレンタイン)は、かわいそうな兵士たちをみかねて、内緒で結婚をさせていました。それが皇帝の知るところとなり、しかも、当時のローマでは、キリスト教が迫害されていました。皇帝は、バレンチノに罪を認めさせてローマの宗教に改宗させようとしましたが、バレンチノはそれを拒否しました。そこで、投獄され、ついには西暦270年2月14日に、処刑されてしまったということです。(269年という説もあります)。バレンタイン・デーそのものは、法王ゲラシウスの時代、6世紀ごろから始まったようです。
ヨーロッパには14世紀ごろから、恋人たちが2月14日に贈りものやカードを交換する風習があったそう。でも“女性から男性にチョコレートを贈る”、というのは日本独特の風習のようです。1958年にチョコレート・メーカー「メリー」の原邦生氏が、ヨーロッパの知人からバレンタインの話を聞き、「贈りものにはチョコレートを!」と、女性たちにキャンペーンをしたのが始まり。その年、新宿の伊勢丹デパートでキャンペーン・セールをしたものの、わずか5個、170円しか売れなかったといいますが、メリーと森永製菓が毎年広告を出しつづけ、今のような2月の一大イベントへと定着していったのです。

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