2月


13日
渋沢栄一(1840〜1931)実業家

現在の埼玉県深谷市血洗島の、豪農の長男として生まれました。父は、いったん衰えかけた家業を回復させた力のある人、又、母は大変慈悲深い人で、愛情を一杯受けて育ち、大変影響を受けたといわれています。

家業の畑作、藍玉の製造・販売、養蚕を手伝う一方、幼い頃から父に学問を学び、従兄弟の尾高惇忠から本格的に「論語」などを学びます。「尊王攘夷」思想の影響を受けた栄一や従兄弟たちは、京都へ向かいます。

郷里を離れた彼は一橋慶喜に仕えることになり、一橋家の家政の改善などに実力を発揮し、次第に認められていきます。27歳の時、15代将軍となった徳川慶喜の実弟・後の水戸藩主、徳川昭武に随行しパリの万国博覧会を見学するほか欧州諸国の実情を見聞し、先進諸国の社会の内情に広く通ずることができました。

明治維新後、欧州から帰国した彼は、「商法会所」を静岡に設立、その後明治政府に招かれ大蔵省の一員として新しい国づくりに深く関わりますが、大久保利通らと財政運営で意見が合わず辞職。明治6年に大蔵省を辞職しています。

その後は、一民間経済人として活動しています。そのスタートは「第一国立銀行」の総監役(後に頭取)でした。第一国立銀行を拠点に、株式会社組織による企業の創設・育成に力を入れ、また、「道徳経済合一説」を説き続け、生涯に約500もの企業に関わったといわれています。例えば、肥料、製紙(後の王子製紙)、保険(東京海上火災保険)、造船(石川島播磨重工)、ガス(東京ガス)、電力(東京電力)、ホテル
(帝国ホテル)、ビール(サッポロビール)等々に関係しました。

時代を先読みし、その時代に合った企業を見出していく能力は、まさに天賦の才能だと言われています。

又、人材の育成にも力を尽くし、商法講習所(現一橋大学)を創立し、東京女学館や日本女子大の創立にも関与し、帝劇をつくり川上貞奴をすえて女優養成所もつくりました。福祉関係では明治初年に設立された浮浪者収容施設東京養育院の院長を五十余年も務めたり、孤児院などの設立・運営、又、生活困窮者を救うための「救護法」の制定等にも力を尽くしました。

又、医療施設の整備にも情熱を燃やし、日本結核予防協会や、現在も残る多くの大病院等の設立や運営にも大きく貢献しています。

国際親善にも力を入れ、世界の有名人と親交を結び、又、その遺志は、現在「渋沢国際学園」として外国人留学生達の日本語を学ぶ学校として受け継がれています。栄一は、約600の教育機関・社会公共事業の支援並びに民間外交に尽力し、多くの人々に惜しまれながら昭和6年11月11日、91歳の生涯を閉じました。

渋沢が院長を五十余年も務めた、浮浪者収容施設東京養育院は。市立の施設でありながら、大正年間には年経費約70万円のうち市が負担したのは 3 万円にすぎなかったといわれています。渋沢の私財と〈集金能力〉の果たした役割は非常に大きかった。渋沢の〈集金能力〉は、福祉事業に関しては抜群の力を発揮した。事業の必要性を感じれば、奉加帳の冒頭に自分の献金額を書き入れ、会場の出口に頑張り、財界人からの寄付を仰いだ。
アメリカへの移民が増え、労働摩擦が起きれば、初の渡米実業団の団長としてアメリカに渡り、53都市を巡り講演する。アメリカから送られた〈青い目の人形〉の答礼として日本人形をアメリカの子どもたちに贈る運動を起こす。
渋沢は「合本主義」と称して資本金を広く募り、株式会社方式の近代的企業をつくっていった。渋沢が創立に関わった会社の数は、城山三郎など多くの人が「五百余」という数字をあげていますが、土屋喬雄は「明治6〜昭和6年の約60年間に彼が発起・創立・経営・後援・関与した事業は、実業・経済関係がおよそ千余」としている。平均1年に17件、月に1件以上とすれば、これはまさに超人的な数字といえます。
 さらに土屋は、「社会・公共・文化事業関係が千百余」と続けている。きわめて単純な言い方をすれば月に 1 件会社を興し、公共のための団体にもう 1 件関わっていたことになる。

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