2月


9日
土田麦僊(つちだばくせん)(1887〜1936)日本画家

「ドガといえば踊り子を思い出すように、
      舞妓といえば自分を思い出させるようになりたい」

日本画家

新潟県佐渡の農家の三男に生まれました。16歳の時、僧侶となるために京都に出て智積院に入りましたが、幼い頃から夢見ていた画家になることを決意して寺を出、鈴木松年に入門、その息子松僊の教えを受けることとなり、「松岳」の号を受けました。

その後新派をリードしていた竹内栖鳳の塾に移り、彼の入門によって塾の雰囲気が一変したとまで言われる程熱心に勉強しました。(「麦僊」の号は栖鳳から受けたものです)その成果は栖鳳への入門後半年も経たぬ明治38年の新古美術品展で「清暑」の四等賞受賞として表れました。

さらに、彼は栖鳳が欧州から持ち帰った多くの画集や美術雑誌にくまなく目を通し自らの制作に生かしていきました。三部作「春の歌」、「罰」、「徴税日」はいずれも郷里の風俗に取材した現実感豊かな作品で、これらによって彼は画壇の新進として注目を受けるようになります。

その後も、明治42年に開設された京都市立絵画専門学校別科に小野竹喬(栖鳳塾の同輩)とともに入学、近代絵画や東西の古典について学び、同時に洋画、日本画の新進たちによる懇談会「黒猫会(ル・シャノワール)」「仮面会(ル・マスク)」に参加し、長い伝統文化の息づく京都のなかで、伝統にとらわれない新しい日本画の創造を目指しはじめました。

京都市立絵画専門学校を卒業後、大正元年および翌年の文展に、西洋絵画のとりわけゴーギャンに範を得た「島の女」と「海女」を出品。古典的手法を学んで作成した「散華」、ルノワールの官能美を意識し、江戸初期の風俗画を研究した「三人の舞妓」など個性あふれる創造性豊かな作品を発表しはじめました。

彼は、情実のからむ文展の審査に対して不信感を募らせ、18年文展を去り小野竹喬らと国画創作協会を結成、より精力的かつ大胆に作品製作に取り組みました。21年から2年間ヨーロッパを旅行し、より完成度の高い力作「舞妓林泉図」「大原女」等を発表、協会解散後は、帝展審査員、定刻美術院会員となり、官展で活躍、フランスのレジオンドヌール勲章を受章しています。

「妓生の家」製作中、病に倒れ亡くなり、この作品は未完成に終わっています。
「ドガといえば踊り子を思い出すように、舞妓といえば自分を思い出させるようになりたい」と言っていた彼は、実際に「舞妓の麦僊」と称されるようになりました。
主な展示作品紹介
「罰」1908年  京都国立近代美術館蔵
第2回文展に出品され、初入選で三等賞を受賞し、麦僊の実力を認めさせることになった作品です。学校に遅刻し、廊下に立たされた3人の姿や表情を巧みに捉え、それぞれの子どもの心の動きまで見事に描き上げています。

「島の女」 1912年  東京国立近代美術館蔵
この頃麦僊が最も惹かれていたのは、後期印象派、なかでもゴーガンでした。八丈島に取材し、島の人の話す言葉も十分に理解できない状況で、タヒチのゴーガンと自分を重ねあわせ、その作風に若々しく対決しているといわれています。

「湯女(ゆな)」 1918年  東京国立近代美術館蔵
第1回国展に出品した作品。桃山の障壁画や大和絵に新しい解釈を加え、人物と風景の融合を試みています。この頃ルノワールに強い関心を寄せており、画面から伝わる官能美はその影響であるといわれています。

「ヴェトイユ風景」 1922年 大原美術館蔵
パリの北西、セーヌ川のほとりに位置するヴェトイユ村。かつてモネも住んでいたこの村で、彼も風景画の研究に没頭しました。この作品での麦僊の興味は赤い屋根とその構成にあり、セーヌ川の美しい風景には見向きもしていません。

「舞妓林泉図(ぶぎりんせんず)」 1924年 東京国立近代美術館蔵
渡欧の研究成果を示した麦僊の代表作として名高い作品。南禅寺塔頭天授庵に取材した背景の松や岩などは様式化され、華麗な舞妓の姿と見事にとけあっています。そのフレスコ画を「自分の神」と感じたベルナルディーノ・ルイーニへの憧憬が示されているといわれています。
「大原女」 1927年  京都国立近代美術館蔵
3人の大原女の姿からはマネの「草上の昼食」が、前景の葉や雲の描き方にはルソーがしのばれます。落ちついた色調や静かな作品のおもむきは、イタリアのフレスコ画からの共鳴が感じられます。

「明粧」 1930年
作品の舞台は京都の料亭「飄亭」。その座敷に坐る夏衣装の舞妓が、淡い色調とゆるやかな描線で描かれています。舞妓の瞳が左右アンバランスに描かれているのは、麦僊が大事に持っていた浮世絵からヒントを得たことによるといわれています。

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