2月


7日
チャールズ・ディケンズ(1812〜1870)イギリス、小説家(男性)

海軍経理局勤務の下級官吏の長男(8人兄弟の2番目)として、南イギリスの軍港ポーツマス郊外に生まれました。後、ロンドンに移住、父のジョンは好人物でしたが、金銭感覚に乏しく、借財の不払いで投獄されたこともありました。家族はそのため大変な貧乏で学校にも行けず、彼自身12歳から町工場で働きました。

貧しく苦しい生活の中で、大英帝国の首都ロンドンの栄光と繁栄の裏に潜む、社会的不公平(年少者の酷使など)金がものを言う世界を身をもって知り、この貧困から抜け出そうと独学で勉強しながら、15歳で弁護士事務所の下働き、翌年、裁判所の速記者となり、やがて、新聞記者となります。

そして、短編小品を雑誌に発表、これらを集めた「ボズのスケッチ集」で24歳の時、新進作家として華々しく文壇にデビュー、1837年に完結した長編「ピックウィック・ペーパーズ」では、その明るいユーモアで爆発的な人気を呼び、その後、次々とベストセラーを出し、地位を確立しました。

彼は、作品の中で自らの体験をリアルに書き、その苦しみを読者に痛烈に訴え、それによって、年少者の虐待や裁判の非能率等が改善されたと言われています。

他にも、雑誌の経営、編集、慈善事業への参加、自作の公開朗読など精力的に行いました。しかし、あまりの疲労と精神的な苦労が重なり急死しています。

彼の小説は一部の人々からは非難されていますが、ビクトリア女王から貧しい庶民の子供までが愛読。19世紀最大の国民的文豪であるばかりでなく、20世紀になっても、各国語に翻訳され、テレビドラマ、映画、ミュージカル等のメディアにまで浸透しています。

又、トルストイ、ドストエフスキー、カフカからも崇拝され、シェークスピアと並ぶ作家として、文人最高の栄誉として、ウェストミンスター寺院に葬られました。
産業革命まっただ中のイギリスでは、労働者は時に18時間労働を強いられたといいます。このような非人道的な状況の中でもとりわけ問題になったのが、年少の労働者への酷使だといわれていますので、彼が少年時代になめた辛酸は想像を絶するものだったと推測できます。
父親が借財のためについにマーシャルシー債務者監獄仁収監された時の話
債務者監獄の内部はいくつもの部屋に分かれていて、家庭生活ができるような仕組みになっていたそうです。家族がマーシャルシー監獄に移ってから、ディケンズは近くのラント・ストリートに下宿生活を始めました。早朝にロンドン橋の辺りをぶらつきながらながら獄門が開くのを待って中に入り、朝食をとって靴墨工場へ出勤し、そして仕事が終わると、またマーシャルシーの「家庭」へ戻る、というのが当時の彼の日課でした。「もし神の加護がなかったら・・・私はチンピラ泥俸か浮浪児になり果てていたことであろう」と、ディケンズはこの時代の危機感を回想しています。
ディケンズの代表的な作品
「オリバー・トゥイスト」
孤児オリバーが、社会の底辺で苦労しながらも純粋な気持ちを失わず、最後には幸せをつかむ。
「二都物語」
フランス革命期のパリとロンドンを舞台に、無実の罪で18年を獄中ですごす医師マネット、その娘のルーシーの夫で死刑の宣告を受けるフランスの貴族ダーネーなどの運命の変転を描く。
「大いなる遺産」
知らない相手から莫大な遺産を受け取ることになった孤児のピップを主人公に、金銭万能主義を批判した小説。(やや自伝的な作品)
「クリスマスキャロル」
冷酷な守銭奴スクルージ老人が、クリスマス前夜相棒マーレーの亡霊によって自分の過去、現在、未来の姿を見せつけられ、改心する物語。
ディケンズの遺書には、いかなる種類の顕彰をも固辞した上で、「私は国に対しては出版された私の作品をもって、そして友人諸君に対しては、それら作品に加えて私との交友経験をもって、私の思い出としてくれることを望むだけである」という一文が含まれていた。
彼の死の原因の一つに、45歳の時に18歳の女優を愛人に囲い、それを隠していたため、精神的にもストレスがたまったのだという説もあります。

2月


7日
ドミトリー・メンデレーエフ

(1834〜1907)

ロシアの科学者、元素の周期律の発見者

ロシアの西シベリアで14人兄弟の末っ子として生まれました。ところが、ギムナジウムの校長であった父が失明し退職を余儀なくされ、母のマリアが、ガラス工場を経営し、子供たちを育てたといわれています。そんな中で、彼は努力して、苦労の末にペテルスブルクの高等師範学校で教師の資格を得ることができました。その後、ドイツに留学して同地の大学の助教授・教授となったのです。

帰国後、彼はペテルブルグ大学化学教授となります。そこで、大学の講義に使えるロシア語の適当な化学教科書がなかったため、自ら一般科学の教科書を書き始めたのです。そこで、元素の体系的分類を検討中に、その記述の順序が問題になってきました。

彼は、そこでカードに元素の名を一つずつ書いて並べ替えて考えているうちに、「元素を質量の順に並べると、似た性質のものが周期的に現れる」ことに気づいたのです。

そこで、何箇所か未発見の元素があるとして、その元素の性質を予言して空欄を設けると、彼は、同じ性質の元素が並ぶように、元素を整理した表(周期律表)をつくったのですが、当初、元素の性質にある関連性は単に偶然のものにすぎないと信じていた学者が圧倒的に多かったために、周期律表は受入れられませんでしたが、その後、彼の予言どおり、ガリウム・ゲルマニウムなどの元素が発見されたため、広く認められるようになったのです。

(参考)  周期律表

周期\族 1A 2A 3A 4A 5A 6A 7A 8 1B 2B 3B 4B 5B 6B 7B 0
1
H
                                2
He
2 3
Li
4
Be
                    5
B
6
C
7
N
8
O
9
F
10
Ne
3 11
Na
12
Mg
                    13
Al
14
Si
15
P
16
S
17
Cl
18
Ar
4 19
K
20
Ca
21
Sc
22
Ti
23
V
24
Cr
25
Mn
26
Fe
27
Co
28
Ni
29
Cu
30
Zn
31
Ga
32
Ge
33
As
34
Se
35
Br
36
Kr
5 37
Rb
38
Sr
39
Y
40
Zr
41
Nb
42
Mo
43
Tc
44
Ru
45
Rh
46
Pd
47
Ag
48
Cd
49
In
50
Sn
51
Sb
52
Te
53
I
54
Xe
6 55
Cs
56
Ba
57〜71
ランタノイド
72
Hf
73
Ta
74
W
75
Re
76
Os
77
Ir
78
Pt
79
Au
80
Hg
81
Tl
82
Pb
83
Bi
84
Po
85
At
86
Rn
7 87
Fr
88
Ra
89〜103
アクチノイド
非金属     軽金属     重金属

 

ランタノイド 57
La
58
Ce
59
Pr
60
Nd
61
Pm
62
Sm
63
Eu
64
Gd
65
Tb
66
Dy
67
Ho
68
Er
69
Tm
70
Yb
71
Lu
アクチノイド 89
Ac
90
Th
91
Pa
92
U
93
Np
94
Pu
95
Am
96
Cm
97
Bk
98
Cf
99
Es
100
Fm
101
Md
102
No
103
Lr

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