2月


6日
ベーブ・ルース(1895〜1948)アメリカ 大リーグ野球選手

メリーランド州、ボルティモアに生まれ、貧しい環境の中で育ちました。彼は幼い頃から手におえない不良で、問題児の学校に入っていたほどでした。彼は大きな体格と乱暴で粗雑なところから、院内でも皆から嫌われていましたが、そこで野球を知り、非行から離れていくことが出来ました。

1914年、大リーグのボストン・レッド・ソックスに認められ入団し投手となります。打者としても天才的な能力を発揮、1919年本塁打29本を放ち話題となり1920年、破格の12万5千ドルでニューヨーク・ヤンキースにトレードされ、3番打者外野手として活躍しました(このころ打席から本塁打の飛ぶ方向を指すのが評判となったそうです。)

野球がアメリカの国民的ゲームとして人気を集めたのは彼の功績とされています。1927年、154試合で本塁打60本の大記録を作りホームラン王となります。1935年ボストン・ブレーブスを最後に引退。本塁打総数714は74年ハンク・アーロンが破るまで大リーグの記録として輝き、「偉大なホームラン王」と呼ばれました。

ホームラン王12回、打点2209、四球2056、打率3割4分2厘の記録を残しています。又、29回3分の2イニング無失点という投手としての記録もあります。

1936年最初の野球殿堂入りを果たし、引退後ベーブルース財団を設立。恵まれない子供達への福祉事業に打ち込みました。

1934年(昭和9年)に、全米選抜チームの選手として来日し、当時17歳の沢村栄治と対決、日本にプロ野球の真の魅力を伝えた伝統的な試合となりました。
彼は、自分の生い立ちから、子供達を非常に大切にしていました、映画(夢を生きた男)でも紹介されていましたが、1926年のワールドシリーズ期間中に瀕死の重傷を負った少年「ジョニー」と2本のホームランを打つ約束をし、それを上回る3本のホームランを打って少年を喜ばせ、その結果、少年が奇跡的に回復したというエピソードが残っています。
酒場を経営するベーブルースの父は子どもを構うには忙しすぎたし、母親は酒場の手伝いとベーブルースの病弱な兄弟姉妹の世話で手一杯でした。母親はベーブルースが17歳のときに亡くなっていますが、彼女は自らが亡くなるまでに、8人の子どものうち6人の死を看取らねばならなかったそうです。
当時の米国では学校にいけない子どもは珍しくありませんでした。ベーブルースや近所の子どもたちが,ストリート・キッズ(不良少年)となるのも当然の成りゆきだったのです。そんな彼の一生を変えたのがバルチモアのカソリック教会でした。
ベーブルースが更正の道を歩むことが可能となったのも,恵まれない子どもたちが手に職を持てるようにと教会が設立した聖メアリー職業校に入る機会が与えられたからだったといわれています。彼は7歳のときから少年時代のほとんどをこの学校で生活し、この学校で初めて教育らしい教育を受け、卒業後はシャツ縫製職人として働き始めました(大選手となった後も「1時間くれればシャツを4枚縫い上げてみせる」と自慢したという)。親の愛に恵まれなかった彼に、学校の教官である牧師たちが父親代わりとなったのです。この学校で出会った牧師たちとは終生の友情を築きました。

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