2月


5日
若槻礼次郎(わかつきれいじろう)

(1866〜1949)

「真の平和愛好者」

明治・大正・昭和時代の政治家

松江藩士奥村仙三郎の次男に生まれました。その後、若槻家の養子となり、東京大学仏法学科に進みました。彼は大学の試験が平均98点、ずっと首席というすばらしい成績で卒業し、大蔵省に入りました。

大正元年、第3次桂内閣の蔵相をはじめ、第2次大隈内閣の蔵相、加藤高明内閣の内相など次々と要職につき、大正15年には憲政会総裁として第一次若槻内閣をつくりました。

昭和5年浜口内閣の時首席全権としてロンドン軍縮会議に出席し、軍縮条約を結びました。会議において、その海軍知識の該博さから「文官提督(civil admiral)」と渾名されるほどであったといわれたそうです。

翌年4月浜口首相が凶弾に倒れたため、民政党総裁として第2次若槻内閣を組織し、緊縮財政と金本位制の保持に努力しましたが、大陸の風雲は急をつげ、9月に満州事変が発生するとともに、党内の紛争のため12月には退陣しています。

昭和9年、党総裁を辞めて政界を引退し、その後は貴族院議員として首相の前官待遇を受け重臣となりました。

第2次世界大戦終戦工作の和平派の一人で。日米開戦のときには「現下の情勢で開戦するのは憂慮に堪えない」と発言して反対したが、ついに太平洋戦争ははじまってしまいました。
東條内閣成立後、徐々に強圧政治色を強めるに至って、彼は近衛文麿、岡田啓介などとともに東条内閣退陣の運動をし、ついにこれを退陣させていますた。小磯内閣の時にはお召を蒙って参内し、終戦に関する意見を述べたのですが、「まことに慙愧に堪えない次第であるが、どうも直接陛下の御前で、目の当たり陛下の御英姿を拝して『降参なさい』という意味のことは、なんとしても言上できなかった」と言ったといわれています。
彼は、原・政友会内閣の時には陪審法排撃の先頭に立って四時間の長大な演説を行い、陪審法を廃案に追い込んでいます。なお、この演説は衆議院初の長時間演説のレコードとなったということです。
小泉総理の祖父の又次郎氏は、とび職から政界入りし、昭和初期の浜口雄幸内閣、第2次若槻礼次郎内閣で逓信相に就任。「入れ墨大臣」として有名でした。


2月


5日
ジョン・ダンロップ(1840〜1921)イギリス 獣医、発明家、実業家

1859年エジンバラのアービンズ・アカデミーを卒業、アイルランドのベルファストで獣医を開業中、息子が当時の丸ゴムタイヤの自転車でしばしば石につまづき怪我をするのを見、又、牛の鼓腸症からヒントを得(腹部にガスが充満していた)、空気で膨らましたゴム袋を丈夫な帆布で包み、自転車の車輪に巻いてみた。乗りやすさとスピードを出せることがわかり、1888年、これを空気入りタイヤとして特許をとった。(空気タイヤの原理は1845年R.W.トムソンがすでに特許を得ていたが、知らなかった)後に交換可能の仕様に改善、1895年頃には自動車にも用いられるようになった。1889年ダブリンに空気入りタイヤ製造会社を設立。事業は急速に展開し、後には130以上の関連企業を擁し、マレーシアやナイジェリアに大規模なゴム園事業を行う等、ヨーロッパ最大のタイヤメーカーとなるが、彼自身は自分の発明から巨利を得ることはできなかった。
空気入りタイヤを自動車に初めて利用したのは、フランスのミシュランで、彼が自動車競走に勝利して以降の普及には目覚しいものがあった。
ダンロップとミシュラン(1月16日生まれ)
ダンロップが発明した空気入りタイヤは、自転車の乗り心地を向上させる画期的な発明だったが、当時は舗装された道路もなく、タイヤの性能も悪かったので、よくパンクした。当時、ダンロップのタイヤは、ひと度パンクすると、交換修理に何時間も要した。そこで、それを解決しようと乗り出したのがフランスのミシュラン兄弟。ミシュランのタイヤとリムは、十数分で修理可能、というワケでまたたく間に普及した。ちなみに、ミシュランが自転車用のタイヤから「馬なし馬車」つまり自動車用タイヤへ進出したのは「四輪ならタイヤが倍売れる」という発想からだったそうである。
1936年のこの日、プロ野球が誕生しました。

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