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橋本左内(1834〜1859)幕末の勤皇の志士 医師 政治思想家(3月11日という説もあります)

福井城下常磐町(現春山2丁目)で外科医の子として生まれました。学問が好きで10歳の時「三国誌」を通読していたと言われています。15歳で「啓発録」を著しました。

1849年大阪に出て、緒方洪庵の適塾で蘭学医学を学び、帰郷して家督を継ぎ19歳で藩医となりました。1854年江戸に出て洋学を学び、藩主に認められ、(このころには、英語・ドイツ語を習得)藩校明道館の学監となり、実学精神をとなえて学風を一新し、洋書習学所を設置し洋楽の積極的摂取に乗り出すと同時に、藩の重臣達と共に藩政改革を行い、物産振興の裏打ちによる、積極的開国貿易論を提唱し、攘夷開国論へ導くなど手腕を振るいました。

藩主松平慶永の側近者として京へ登り、将軍の後継ぎ問題や、幕府の外交政策について、大老の井伊直弼に反対したため(一橋慶喜の擁立と、開港説)、安政の大獄で訊問を受け、身分を越えた行為として死罪を申し渡され、江戸伝馬町の獄舎にて26歳の若さで処刑され、無念の死をとげました。
橋本左内は、中国の英雄岳飛を敬い、12歳の時に、自ら景岳と号した。
「獄中の作」 (安政六年)
  苦冤(くえん) 洗い難く 恨み禁じ難し
  俯すれば則ち悲痛 仰げば則ち吟ず
  昨夜 城中 霜始めて (お)つ
  誰か知る 松柏後凋の心
橋本左内のエピソード1
ある人の外傷がひどくなった時、いきなりやきごてを創部に当てようとしたので、隣人が諫めると、「化膿創の治し方は知らぬが、火傷の治し方なら知って居る故、先ず火傷にするのだ」と、言ったそうです。
橋本左内のエピソード2
松平春嶽公が「当藩には残念ながら人物が居らぬ」と嘆いた時、水戸藩の藤田東湖が、「橋本が居るではないか」と、若き左内を洞察していて、公をたしなめたそうである。西郷隆盛でさえ、若き左内を対等に処遇し、左内の刑死を知った時、手紙の中で、左内の死について、次のように書いています。「橋本迄死刑に逢い候儀案外、悲憤千万堪え難き時世に御座候。」。そして、彼は城山で自決する時まで左内の手紙をふところに入れており、「橋本先生が生きて居られたらのう」と、云ったと言われています。
参考 啓発録(一部抜粋)(ちなみに、これは左内15歳のときの文章です)
一、「稚心を去る」
 稚とはすべて水くさき処ありて、物の熟して旨き味のなきを申すなり。この心毛ほどにても残り是れ有る時は、何事も上達致さず、とても天下の大豪傑と成る事は叶わぬ物にて候。
 一、「気を振ふ」
 気とは、人に負けぬ心立てありて、恥辱のことを無念に思ふ処より起る意気張りの事なり。(中略)位を望み、女色を好み、利に走り勢ひに付く事のみにふけり候処より、この人に負けぬ恥辱のことは堪えぬと申す、雄雄しき丈夫の心くだけなまり候。
 一、志を立つ
 志と申すは、書物にて大に発明致し候か、或ひは師友の講究に依り候か、或ひは自分患難憂苦に迫り候か、或ひは憤発激励致し候かの処より立ち定まり候。古より豪傑の士と申し候人とて、目四つ口二つこれあるにてはなし。皆その志大なると、逞しきとにより、遂には天下に大名を揚げ候なり。

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