2月


1日
児島惟謙(1837〜1908)司法官

1837(天保8)年、宇和島藩士・金子惟彬の次男として生まれました。生後5か月で母直子 (那保子)と生別、 その後、里子にやられたり、野村の緒方家や岩松の小西家の使用人になったりと、つぶさに辛酸をなめました。しかし彼は、よくその逆境にたえて文武の修行にはげみ、特に剣術をよくして、23歳の時には師範免許の腕前に達していたそうです。

幕末の非常時に彼は、郷里にとどまっておれず尊王運動に参加し、再三脱藩して志士たちと往来を重ねていました。そして維新以後の明治4年司法省に入り、明治25年に大審院(現最高裁)長の職を辞するまで21年間の司法官生活を送りました。

彼の名前を後世に残したのは、「大津事件」でした。「大津事件」とは、明治24年5月11日、滋賀県大津で、津田三蔵巡査が訪日中のロシア皇太子(後のニコライ2世)に凶刃をふるった(切りつけた)傷害事件のことで。幸いなことに津田巡査はすぐに取り押さえられ、皇太子も額に2ヶ所傷を負っただけで命に別状はありませんでした。

この事件において、日本政府は、当時、世界屈指の軍事力を擁し、シペリア鉄道を延伸しつつ、東進を続けていた大国ロシアに配慮し、明治天皇自らが、負傷したロシア皇太子を見舞いに出向くなど、この時代としては異例の措置をとっています。
このようにロシアの出方を極度に懸念した当時の政府は、ロシア当局に犯人を死刑に処するという言質を与えてしまっており、首相の松方正義も司法部に対し「皇室罪」を適用して巡査を極刑(死刑)にすべしと、司法当局(大審院)に迫ったのです。

しかし、彼は、三権分立の信念を貫き通し、皇室罪の適用は、我が国憲法を破壊して「裁判史上の汚点となる」と考え、「法によって裁く」との信念で政治介入を断固排除、他の裁判官を説得、皇室罪の適用を退け、「謀殺未遂」で処断、司法権の独立を守りぬいたのです。

こうしたことから、後年、惟謙は、“護法”の神と称えられた。惟謙は、退官後も貴族院議員、衆議院議員などの要職につきましたが、明治41年7月1日に死去しました。享年72歳でした。
大国ロシアとの関係悪化を恐れた政府の意を退けて、あくまでも、「謀殺未遂」で処断、司法権の独立を守りぬきました。その結果は、諸外国がこの判決をみて、日本は法治国家であり、国際社会の仲間にいれてよいとして、幕末に各国とむすんだ不平等条約の改定がすすむきっかけとなったとも言われています。
諸外国の顔色ばかりうかがっているようでは、まだまだ、子どもと思われていたのでしょう。今の日本にこそ、彼のような人材が必要だと思います。
この事件のとき、2人の人力車夫が大活躍しています

事件の時、ニコライ皇太子とジョージ皇子を乗せていた人力車は、前挽き1人、後ろ押し2人の3人挽きで、挽き子は「常盤ホテル」お抱えの車夫たちでした。津田三蔵が皇太子に襲い掛かった時、車夫のひとり、向畑治三郎は、犯人の両脚をタックルして倒し、また北賀市市太郎は、津田が取り落としたサーベルをとって津田の背中に斬りつけるなどの、目覚ましい活躍をし、警備の巡査より先に犯人とわたりあったということで、ニコライ皇太子やジョージ皇子に、働きを印象づけています。

その後、ニコライ皇太子は事件現場で犯人逮捕に協力した2人の車夫を軍艦アゾバ号に招いています。みずから神聖アンナ勲章を授けるとともに、一時金2500円と年金1000円を与えると告げたのでした。そのときの、彼らの服装は、なんと法被(はっぴ)に股引(ももひき)の車夫姿のままでした。(これはロシア側の指示であったそうです。)このとき、2人は、日本政府からも、勲8等白色桐葉章と年金36円が贈られ、2人は「帯勲車夫」と呼ばれたそうです。

(当時の2500円は、今なら2000万円以上にあたるそうです。)

その後の2人の運命は対照的でした。
向畑はもともと前科があったため、毎月25円を生活費として渡し、残りは京都府が管理することになったのですが、結局、賭博と女とに使い果たしてしまったといわれています。最後には、勲位も剥奪され、みじめな晩年を迎えています。

一方の北賀市は、郷里に戻り、その金で田畑を買って地主となり、独学で勉強もし、9年後には群会議員に当選しています。

しかし、日露戦争が始まってからは、ロシアから年金の仕送りを受けているため、スパイではないかと悪意のうわさが流れ、周囲から冷たい目で見られる日々だったといわれています。
皇太子は、この事件の3年後即位してニコライ2世となりますが、不幸にも、10年後には日本と日露戦争を戦い、負けてしまいます。さらに日露戦争のさなかにはロシア第一革命が起き、宮廷内では怪僧ラスプーチンが暗躍し、ついにはロシア2月革命が起きると退位させられてしまい、翌年家族ともどもレーニンらの革命政府に処刑されてしまっています。
1939(昭和14)年、その出生地に児島惟謙先生功徳顕揚会によって記念碑が建立され、また1985(昭和60)年1月には(宇和島)城山上り立ち門の前に銅像が建立されている。

2月


1日
ジョン・フォード(1895〜1973)アメリカ、映画監督

メーン州ケープエリザベスに生まれる。両親はアイルランド移民で、1914年監督兼俳優として活躍していた兄を頼り、映画界に入る(ユニバーサル映画)。大道具係、俳優を経て、1917年「颱風(たいふう)」で監督となる。24年に「アイアンホース」(鉄道建設を描いた西部開拓劇)、35年「男の敵」(アイルランド独立運動の密告者を描く)で、最初のアカデミー監督賞を受ける。39年には西部劇の最高傑作といわれる「駅馬車」を生む。これに続く40年代の活躍はめざましく、40年「怒りの葡萄」41年「我が谷は緑なりき」でアカデミー賞を2年連続受賞。この2作は、彼のアイルランド系らしい正義感と家族愛が、社会の矛盾に目を向けさせている。46年「荒野の決闘」(保安官と家畜泥棒一家の対決の実伝)48年「アパッチ砦」、49年「黄色いリボン」、50年「リオ・グランデの砦」は騎兵隊3部作といわれ、優れたアクション演出と共に、軍隊を家族的共同体と見る、彼の特色が良く出ている。「駅馬車」以来、ジョン・ウェインをいつも主役に抜擢した。1952年「静かなる男」は、両親の故郷アイルランドへの愛着に満ちた作品で、4度目のアカデミー賞を受けた。73年癌のため生涯を閉じた。
彼の映画における型にはまったインディアンの描写は度々議論を巻き起こしたが、積極的にユタ州のモニュメント・ヴァレーで撮影を行いナバホ・インディアンをエキストラとして起用して、給料を支払うことによって生活に困っていた彼らを助けている。
『男の敵』(35)、『怒りの葡萄』(40)、『わが谷は緑なりき』(41)、『静かなる男』(52)でアカデミー監督賞を4度受賞するが、これは監督の中では最多記録である。
1953年のこの日NHKがテレビの放送を開始しました

トップページに     今日生まれの偉人伝に