1月


30日
勝 海舟(1823〜1899)

江戸末期から明治初期にかけての政治家

旗本、小普請組の勝小吉の長男として江戸に生まれました。通称は麟太郎、幼少時代はかなり貧困でした。7歳の時、親類の世話で、12代将軍の5男初之丞の御学友に抜擢されますが、初之丞が早死にしたため、一時は幕臣の夢を断たれます。

剣を島田虎之助、蘭学を永井青崖に学び、後、蘭学塾を開き、諸藩の発注を受けて鉄砲、大砲を作り、家計にあてていました。又、医者から蘭和辞典「ドゥーフ・ハルマ」58巻を借り、半年かけて2部写し取り、1部は30両で売っています。

32歳のとき、幕府の海軍の伝習生として長崎に行き、オランダ人から海軍の将校としての教育を受けました。(伝習生の中に、薩摩藩士が居り、付き合いがあり、後の西郷との関係に役立つ)砲術、航海術、測量術等の西洋の兵学を学び、1860年日米修好通商条約の批准書交換のため、咸臨丸の艦長として、日本で初めて太平洋を横断しアメリカに渡りました。悪戦苦闘の末、37日かかってサンフランシスコに着き、アメリカ社会を見聞して帰国しました。

40歳で、軍艦奉行となり幕府のために海軍を作り、幕臣や、坂本竜馬を教育し、大きな影響を与えました。次いで陸軍総裁となり、官軍が江戸に迫った時(戊辰戦争)参謀西郷隆盛と江戸城明渡しの談判をして江戸を戦火から救いました。

維新後、明治政府にも重く用いられ、元老院議官、枢密顧問官になっています。76歳で亡くなりました。

著書「海軍歴史」「開国起源」等

山岡鉄舟、高橋泥舟とともに「幕末三舟」といわれています。
西郷とのエピソード
勝海舟は、西南戦争に関して逆賊となった西郷隆盛の名誉回復にも努めている。海舟は、「西郷さん、私はあの日から、あんたがこうなるのは分かっていましたよ。あなたは人に好かれすぎましたね。もうちょっと私は生きます。亡国免罪の臣、勝海舟としてね。憎まれっ子は長生きするものです。」といったという。晩年は著述に専念したが、その死の直前まで新政府に対し批判をしていたという。海舟の墓の横には、西郷隆盛の留魂碑が立っている。
勝海舟が犬嫌いなのは?
9才くらいの時に塾の帰りに犬に睾丸をかじられて死ぬ思いをし、それ以来犬は大嫌いになった。
人柄?
人斬り以蔵として有名な岡田以蔵は彼を斬りに行って逆に諭された内の一人。『海舟座談(岩波文庫)』附録によれば坂本龍馬も彼を斬りに行き、そのまま弟子入りしたとか…。
なんと海舟は自宅において堂々と妻妾を同居させていました。海舟は「おれの家に波風一つ起きないのは、あれの偉いところ」と、正妻たみを持ち上げていますが。なんと、お妾さんも、1人ではなく四人もいたそうです。
しかし、晩年は、子供たちの不幸に悩み続け、その上、孫の非行にも見舞われ、孤独な生活だったといわれています。
真偽の程はわかりませんが

彼が咸臨丸でアメリカに行って帰国したとき、老中たちは「アメリカに行ったときに何か目につけてきたものがあろう。詳しく話してみい」と何度も尋ねたそうです。彼も最初は、「同じ人間のすることですから、別にかわったことはありません」と返答していましたが。何度もしつこく尋ねられるので最後には、「さよう、少し目につきましたのはアメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、みな地位相応に利口でございます。この点ばかりは、まったくわが国と反対のように思いまする。」と言ったということです。
当時の新聞の記事に彼の葬儀の様子がのっていました
「徳川慶喜公の子忠太郎氏入りて家を襲ぐことまた既記の如し明後二十五日午前九時赤坂氷川の邸出棺仏式を以て青山墓地に葬るといふ、而してその儀最も質素を用ゐ新聞紙に広告することなく会葬者の車夫に弁当を給することなく是等費用を挙げて赤坂区内の貧民に施与すとぞ」
この記事のように、最後の将軍、慶喜十男の精が海舟の養子となって勝伯爵家を継ぐことが決まっていたのです。嫡子小鹿を失った海舟は、精に後を継がせることによって徳川から得た禄を徳川に返すのだという理屈を立てていたといわれています。

1月


30日
フランクリン・デラノ・ルーズベルト

(1882〜1945)

アメリカの政治家、合衆国第32代大統領

ニューヨークの名門の家に生まれました。ハーバードとコロンビアの両大学を卒業後、弁護士となり、民主党に入って、ニューヨーク州上院議員、海軍次官をつとめています。1920年の大統領選挙で副大統領候補に指名されましたが敗北してしまい。悪いことは重なるもので、翌年小児麻痺にかかり一時引退をして闘病生活を送っていましたが、1928年政界に復帰して、ニューヨーク州知事に当選。1932年には大統領に当選しました。

当時、アメリカは大恐慌と呼ばれる不況の真っ只中にありましたが、彼は、大統領になるとすぐに、ニューディール(新規まきなおし)政策を取り、この政策によって、貧困家庭や老人、失業者に対する援助や収入の保障で弱者への社会的セイフティ・ネット(安全網)を確保し、企業活動を規制して社会の安定を図ったのです。これらの政策によってアメリカは経済危機を脱していったのです。

1940年には大統領に3選され、第2次世界大戦の勃発後は連合国側を指導して大戦に参加しました。カイロ、テヘラン、ヤルタ会談には中心人物として参加し、ソ連との協調を重視しながら大戦の終結、戦後の平和構想の立案に尽力しました。

しかし終戦を目前に1945年4月12日脳溢血で亡くなりました。63歳でした。


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