1月


29日
ロマン・ロラン(1866〜1944)

フランス 小説家 劇作家(男性)

ブルゴーニュ地方のクラムシーに生まれました。父は公証人でした。幼少時代近所の聖マルタン寺院の鐘の音と母のひくピアノの音の中で育ち、音楽に関心をもつようになります。

1880年パリに移住エコールノルマルで歴史を学び優秀な成績で卒業、選ばれてローマに留学、文学博士の学位を得、後、母校とソルボンヌ大学の音楽史の教授となり多くの戯曲を書き、「ベートーベンの生涯」などの偉人伝を発表します。

1904年大学をやめ、10数年を費やし「ジャンクリストフ」を完成しました、この作品によって1913年アカデミー文学大賞、1915年ノーベル文学賞を受けました。その賞金の全てを赤十字社と社会事業団に寄付しています。

第一次世界大戦中、国際赤十字運動に従事、反戦論文を書いたためにスイスに亡命、レマン湖畔の山荘で次々と作品を書き、ペンで平和のメッセージを送り続けました。彼の人格を敬仰し、思想と芸術にひかれる人々(ガンジー、タゴール)をはじめ、世界の友が巡礼のように彼を訪れています。

分裂したヨーロッパ諸国の統合を夢見、各国の精神文化を融合させようとしました(EU統合の思想の発案は彼が提唱した事に始まります)。1933年「魅せられたる魂」が完成、ゲーテ賞授与の申し出が合ったが拒絶しています。1938年フランスに帰り平和運動に尽くしました。

代表作は他に「ミケランジェロの生涯」「トルストイの生涯」「ガンジー伝」等。音楽研究、偉人伝記等に優れた作品が多い。

ロマン・ロランが二十一歳の時のエピソード
芸術と人生の相克に悩んだ若きロランは、その悩みを解決すべく、かの有名なトルストイに、長文の手紙を書いた。しかし、世界的に高名な文豪から返書がくるなどとは、ロランはすこしも思っていなかった。ところが、トルストイは、この無名にして未知の一青年に対し、何と三十八ページにものぼる丁重な返事を書いて送ったのである。返事を受け取ったロランは感激し、その後、トルストイを生涯の師とも父とも慕っていった。そして、やがて世に名を知られるようになってからも、トルストイにならい、良心の問いかけに対しては、誰にでも全魂こめて返事を書いた。
「ロランは、トルストイの影響で生まれでたのではなく、トルストイの触発によって潜在していたロランが顕現したである」といわれている。
ジャンクリストフ
国境を越えた友情を描いたこの作品は、力、愛、知識の完全な結合を描きたかっ たと言われ、世界平和への願いが込められている。青年の理想像を描いたもの として、世界各国で広く読まれている。

ガンジー(1869〜1948)
インドの政治家、民族運動の指導者。無抵抗、不服従、非協力主義により独立運動を指導。イスラム教反対の極右派青年によって暗殺された。

タゴール(1861〜1941)
インドの詩人、思想家。インドの近代化を促すとともに、東西文化の融合につとめた。抒情詩集「ギーターンジャリ」でノーベル文学賞を受賞。
彼の残した言葉

「いつまでも続く不幸というものはない。じっと我慢するか、勇気を出して追い払うかのいずれかである。」

「人生は往復切符を発行しません。一度出発したら二度と帰って来ないのです」

「正しく高貴に行動する者は誰でも、まさにその故に、不幸に耐え得ることを、私は証拠だてたいと思う」

「私は善良よりほかに卓越性のあかしを認めない」

「それ(ファシズム)がもし敗北しなければ、私たちが愛し、また尊敬するものはみんな滅びるでしょう。」

「英雄とは自分の出来ることをした人である。 」

「真実の生活に根ざすただ一つの真の道徳は調和であろう。だが、人間社会は今日まで圧迫と諦めの道徳しか知らなかった」

1月


29日
アントン・パーヴロヴィッチ・チェーホフ

「私は医学を自分の正妻とみなし、文学を愛人と考えているが、私にとって愛人は妻より愛しい。」

(1860〜1904)

ロシアの小説家、劇作家

南ロシアの港町、タガンロクで生まれました。少年時代に両親がモスクワに移ったので、ひとり故郷で中学校卒業までの3年間家庭教師をしながら勉強を続けました。

その後、再び家族と暮らすようになって、モスクワ大学で医学を学んでいましたが、このころから小説を書き始めています。大学卒業後は医者として働いていましたが。小説も書きつづけ「さまざまな物語」や「たそがれに」によって、作家としても認められるようになり、1887年には著名な作家のみに与えられる栄誉、文学基金を授けられています。

彼の作品は、当初軽いユーモアを持つ風刺的なものでしたが、徐々に、当時のロシアの持つ社会的な問題を取り上げるようになり、人間の心理を見事に描いてゆきました。

また四大戯曲と呼ばれる「かもめ」「ワーニャ伯父さん」「三人姉妹」「桜の園」はロシア演劇史上不滅の名作と呼ばれ。世界演劇の歴史に新しい時代を作りました。日本でも大正期以来たびたび上演されています。

彼は、25歳のとき喀血してから、常に病気(肺結核)と闘いつづけていましたが、1904年に急速に病状は悪化し、7月の2日、彼はバーデンホテルで亡くなりました。44歳でした。遺骸はモスクワに送られそこに葬られたということです。


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