1月


28日
サー・ヘンリー・モルトン・スタンリー(1841〜1904)

イギリス 探検家 ジャーナリスト

ウェールズに生まれ、家庭的に恵まれず、幼いうちに施設にあずけられましたが、15歳で使節を脱走して、アメリカニューオリンズに渡り、イギリス生まれのヘンリー・スタンリーという商人に拾われ養子となりました。

南北戦争では南部軍に加わり、後、海軍軍人を経てニューヨークのヘラルド新聞の通信員として、アフリカ奥地で行方不明になったリビングストンを探すためアフリカへ渡りました。

苦労の末、1871年タンガニーカ湖畔の漁村で、病床にあったリビングストンの救出に成功します。その後5ヶ月程共に探検を行うが帰国(リビングストンに帰国を勧めたが、彼は留まることを選び、2年後病没する。)1874年アフリカ中央部の横断を行い、その後探検隊を率いてアフリカ大陸を横断。ナイル川の水源を発見、更に、奥地に入り、コンゴ川を下りました。この探検記は「暗黒大陸横断記」として出版され、更にコンゴ地方の探検を始める等、アフリカ探検に大きな貢献をしました。

1892年イギリス国籍に戻り、95年議員となりました。

1899年にはサーの称号を受けています。
リビングストン(1813〜1873)イギリス 宣教師 アフリカ探検家
 ザンベジ川、ビクトリア滝を発見、アフリカ横断探検旅行を果たす。
リヴィングストンの発見
1866年1月、三度アフリカの地を踏んだリヴィングストンは、ルアラバ川がナイルとつながっていると当たりをつけ、詳しい調査を開始した。しかし、長い探検生活からか体調を崩し、タンガニーカ湖のそばのウジジという村で静養を余儀なくされた。
その間、ヨーロッパではリヴィングストンは死んだという噂が流れていた。すでに3年以上も連絡が途絶えている。英雄をこのままにはしておけないということで、大捜索が開始された。その中でも「ニューヨークヘラルド」紙は、熱心に押し進め特派員スタンリーが、1871年11月10日、ウジジで劇的な出会いを果たした。どうやら連絡が途絶えたのは、当時、アラブ商人が活発に活動していたのだが、リヴィングストンは奴隷貿易反対の立場を一貫して取っていたため、彼らに嫌われ連絡を取ってくれなかったというのが主な原因であるらしい
1871年にアメリカ人新聞記者スタンリーが、アフリカの奥地で長く消息を絶っていたイギリス人探検家リビングストンを、困難で長い探検旅行のすえに「発見」した。このとき、感動で叫び出したい気持ちを抑えたスタンリーは「リビングストン博士でいらっしゃいますね」とわかりきった質問をした。リビングストンは笑みを浮かべて「そうです」と答えた。この二人の会話はのちのちまでジョークにも使われたほど有名になった。
リビングストン没後、スタンリーはジャーナリストの身分を利用してニューヨーク・ヘラルド社、ロンドンのデイリー・テレグラフ社といった当時の大新聞社から多額の資金を調達することに成功し、ザンジバルで重さにして8トンの物資と356人の大部隊を編成し、探検に出発しました。

ザンジバルから中央部までは細い道を一列に歩いて行くのですが、何と長さが1キロの列になったそうです。途中で湖や川では船を使用するため、組み立て式の約10人乗りの舟を分解して運搬し、ビクトリア湖に到着すると舟を浮かべて湖面を一周し、ナイル川へ流出する河口を確認します。
その後、コンゴ川を船で下ります、コンゴ川は最初は北流しますが、彼の名にちなんで命名されたスタンリー滝を境に流れを西方に変え、広大なジャングルで覆われたコンゴ盆地を横切ることになります。

結局、ザンジバルを出発してから999日後に大西洋に到達しましたが、病気や現地人の襲撃などにより最後まで残った隊員は最初の人数の約三分の一になっていたということです。

1月


28日
八木秀次(やぎ ひでつぐ)

(1886〜1976)

八木アンテナ、テレビアンテナ発明者  

大阪府に生まれました。東京帝国大学工科大学電気工学科を卒業し、仙台高等工業学校教授を経て、その後、大正2年からイギリス、アメリカ、ドイツに留学し、ドイツでは無線通信用の連続した電波の発生の研究を行い、大正5年に帰国しました。

彼は、この留学生活で無線学を生涯の研究テーマとして認識し、大正8年には東北帝国大学工学部設立とともに教授となり、同年、工学博士となっています。

大正14年には、「短波長電波の発生」、「短波長による固有波長の測定」等の論文を発表し、この理論に基づき、いわゆる八木アンテナの基本となる「電波指向方式」を発明し、特許権を得たたのです。

この発明は、極めて簡単な構成で電波の指向性通信を可能にしたもので、現在でも、家庭で使われているTVのアンテナや、空港で使用されているレーダーは、この方式に基づいて作られています。

彼の研究は、あまりの先進性ゆえに、日本ではあまり重視されていませんでしたが、諸外国の特に軍部はこの発明の重要性を認識し、高性能レーダーなどの多くの兵器に役立てていったのです。太平洋戦争の末期、日本軍は米軍捕虜から押収した書類の中にYagiという言葉が頻繁に出てくるため、不思議に思って捕虜を尋問したところ逆に「日本人がなぜ八木アンテナを知らないのだ?」と米兵を驚かせたといわれています。

日本軍部は驚いてすぐに高性能レーダーの開発に着手しましたが、ときすでに遅く終戦を迎えてしまいました。

彼は、自分が開発したアンテナが敵を助け多くの国民を殺す要因の一つになったことを苦しみました。しかも、彼は、戦犯の嫌疑までかけられたのです。

その後、彼は東京工業大学学長、第29代特許局長をつとめ、多くの優秀な人材を育てることに力を注いだそうです。昭和51年1月19日に亡くなりました。89歳でした。  
八木アンテナと命名したのは、日本人ではなく、欧米人が付けた名称だそうで、日本では、彼が軍部にも自ら出向き情報機器の重要性を進言していますが、まったく相手にされなかったのです。もし、軍部がこの発明の重要性に気が付いて、真剣に取り組んでいれば。歴史は変わったかもしれません。
戦後に、長短波を用いるテレビ放送時代が実現した時、八木アンテナは一躍花形となったのですが。それから、数十年経った今でも、テレビの受信用としては、いまだにこれ以上のアンテナは現れていません。
晩年の彼は自分の研究よりも、人材の育成に力をそそぎ、多くの優秀な人材を世に送り出しました。湯川秀樹のノーベル賞受賞の陰にも、彼の尽力があったということです。


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